川井書生の見聞録

映画評論、旅行記、週刊人生の記録を中心に書いています。

茨城県の巨大大仏と滝、水戸徳川家の歴史(書生の旅行記5)

千葉の鋸山で青春18切符を1回使用したものの残り4回分をどうしたものか。。。ということで茨城県のあっちこっち(牛久・水戸・ひたちなか・大洗・袋田)に行ってみることにしました。高さ100mをゆうに超える袋田の滝、牛久大仏。江戸時代に作られた梅で有名な偕楽園、現代に作られたネモフィラなどで有名なひたちなか海浜公園。どれもスケールが大きかった!これで青春18切符は残り2回。

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袋田の滝

100m超の巨大建造物!牛久大仏

東海道線から常磐線に乗り換えること1時間。茨城県で最初に降りた駅は牛久駅でした。牛久駅前には稀勢の里の大きな手形が飾られていました。これから僕は、稀勢の里の手の平よりもさらに大きい手の平を持つ牛久大仏へと向かいます。

バスが牛久大仏に近づくにつれ、徐々に異様な大きさの建物が見えてきました。世界最大の青銅製仏像は高さ120mを誇ります。そのスケールの大きさは奈良の大仏が手の平に乗るほど。それはまるでゴジラやガンダムと戦う巨人のようでした。

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地上にいる人間との大きさを比較してみてほしい

鎌倉時代、親鸞が常陸国(茨城県)で他力年仏の教えを人々に伝えるとともに、浄土真宗の聖典となる「教行信証」の執筆にとりかかる。この著書成立の1224年が、浄土真宗の始まりの年と言われているそうである。それから800年後、親鸞ゆかりの地に牛久大仏が建立されたそうだ。高さは阿弥陀如来の十二の光明にちなんで120mになったそうだ。

大仏内には様々な世界があり、中には大仏に関する展示もあった。牛久大仏は建立された間もないので古銅色だが、これが50-100年すると青銅色になるそう。僕が老人になった頃には、牛久大仏は自由の女神と同じ肌の色をしているのかもしれない。

地上85mの展望台からの景色は、この日が曇り空だったこともありイマイチだった。窓が狭すぎてパノラマのような風景を一望することができないのである。晴れていれば筑波山などが見えたそうだが。

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地上85mからの景色

帰路に「本願荘厳の庭」に立ち寄った。その庭は蜘蛛の巣と鯉だらけの池で、僕が池に近づくと夥しい数の鯉が足元に近寄ってきた。あまりにも人間に懐いているなあと思ったが、後ろを振り向くとそれも納得。鯉の餌やりをできる池だったのだ。この池の鯉は餌付けされており、鯉もまた人間は餌をくれる奴らと認識しているようだ。

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左)本願荘厳の庭 右)鯉に餌やりができる

しばらくしても僕が餌をくれないと分かった鯉たちは、回れ右をして何処かへ去っていった。その態度の釈変ぶりは、興味がないと知った駅前の営業に似ていた。僕は、鯉にも感情や思考があるのだと、如実に感じたのであった。

茨城県の歴史

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茨城県立歴史館

常陸風土記

この旅行のお供は吉川英治の「平の将門」。平将門は、現在の茨城県あたりで活躍した豪族であり、作中で筑波山は幾度となく登場した(今回は行かなかったので、今度行こうと思っている)。その筑波山を左手に常磐線を北上していく。

水戸に到着した頃には昼をすでに過ぎていた。僕は早速茨城県立歴史館へ向かった。そこでは、茨城県の歴史が古代から現在

まで展示されており、大変分かりやすく同地の歴史を知ることができた。

奈良時代に律令制度が行われ、常陸国には国衙(国の長官のいる役所)が置かれ、各郡には郡衙が置かれた。また、この時代に古事記・日本書紀・万葉集も作られ、「常陸国風土記」も作られました。そこには、「茨城」の由来も記述されていました。

①黒坂命が賊を滅ぼすために茨を用いて城を作った説。

②黒坂命が穴の中に茨棘を入れて賊を追ったところ、賊は茨棘に刺さって死んでしまった説。

上記2つの説が常陸風土記には書かれているそうです。

平将門

時は流れ、都が奈良の平城京から京都の平安京へと移る。桓武天皇の曾孫高望王は、朝廷から「平」の姓を賜る。その後、上総国(千葉県)の役人として住みつく。彼の子孫は今の千葉県北部から茨城県南部へ広がっていき、坂東平氏として有名となる。平将門は父親の領地を奪った叔父や彼らと結託していた源氏と争いを始め、関東一帯を巻き込む戦へと戦火が広がる。

平将門は最終的に従兄弟である平貞盛や藤原秀郷によって討ち取られるが、平氏一族はその後も下総国や常陸国で活動を続ける。平将門は藤原一族の腐敗した朝廷に反抗したとして、英雄として語り継がれている。

前期水戸学 ー徳川光圀の治世ー

江戸時代、常陸国で最も大きかった藩が水戸藩であった。また水戸藩は尾張と紀伊とに並んで御三家と呼ばれていた。水戸藩主は初代藩主徳川頼房から11代まで受け継がれ、中でも2代藩主徳川光圀と9代藩主徳川斉昭が有名である。

水戸黄門で有名な光圀だが、少年時代はあまり勉強をせず、身分の低い者たちと遊んでいたので、家臣は心配したそうだ。しかし、18歳の頃に司馬遷の「史記」を読んで感動し、日本の歴史書を作ることを決意。「大日本史」の編纂事業が始まった。しかしながらそれが完成したのは1906年。250年の歳月が過ぎていた。この光圀の時代を前期水戸学と呼ぶ。

後期水戸学 ー徳川斉昭の治世ー

1829年に斉昭が水戸藩主になると、藤田東湖をはじめ、多くの藩士を身分に関係なく登用し、大きな改革を始める。それは10数年後に始まる幕府の「天保の改革」に影響を与えた。

改革の1つとして、「弘道館」を設置し、藩士の教育に努めた。そこでは「大日本史」の編纂で生まれた水戸学を教え、尊王攘夷の礎を築いた。そして、この後期水戸学の影響を受けた志士たちによって、江戸幕府が倒幕されることとなる。

なお、斉昭は文武を学ぶ場であった「弘道館」に対し、心身保養の場として「偕楽園」を造園した。彼はどちらにも梅を植え、今ではどちらも梅の名所となっている。

徳川斉昭が築いたもの

偕楽園 ー心身保養の場ー

歴史館から南へ行くと、日本三名園の1つである偕楽園がある。偕楽園は、先の説明の通り、徳川斉昭が心身保養の場として造園された。僕は表門から入場し、受付ではパンフレットや地図と一緒に、新型コロナウイルス対策について書かれた紙を渡された。

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左)偕楽園表門 右)一の木戸

表門から偕楽園へ入ると、すぐそこに「一の木戸」がある。そこから先は「孟宗竹林」という名所が続く。鎌倉の「報国寺」や伊豆の「竹林の小径」のような竹林である。時季や天気が異なれば、竹の色はもう少々艶やかだったのだろうか。

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孟宗竹林

竹林を抜け、今しばらく歩を進めると、好文亭に辿り着いた。好文というのは梅の異名で、「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅の花が開かなかった」という中国の故事に由来しているのだそう。

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好文亭

好文亭は好文亭本亭と奥御殿を総称した名称で、まずは奥御殿から見学するルートになっていた。好きな食べ物を最後に食べる人みたいである。

奥御殿は平屋造りで、藩主夫人など女性たちの休養の場である一方、好文亭で出火した際の備えとも言われている。10室から成っており、調理室、藩主夫人お付きの婦人たちの詰所、藩主夫人の座所・対面室・控えの間、また斉昭夫人が住んでいた部屋があった。中でも梅の間は奥御殿で最も高貴な部屋で、明治以降、皇族来亭の折には休憩室として利用されていた。

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左)奥御殿 右)これは梅の間ではなく桜の間。襖絵には美しい桜の絵が描かれている。

奥御殿と好文亭をつなぐ太鼓橋を渡り、小坊主が控えていた華燈口を通ると、東塗縁に出た。漆塗りの床が大変美しく、雨戸も回転式なため、開放感も抜群。斉昭はここで藩内の老臣と老民を招いて養老の会を開いたそう。

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東塗縁

西塗縁は東塗縁の倍の大きさで、しばしば詩歌管弦の宴が催された場所である。お茶のCMに使われそうな部屋である。

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西塗縁

 好文亭は外から見ると2階建てに見えるが、実際は3階建てである。2階にはわずか武者の間があるだけで、そこには警護の侍が控えていた。階段も急で、襲撃者が下から簡単に登れないようになっている。心身保養の場と言っても、城としての機能はあったわけである。

3階は楽寿楼と言い、東・南・西と太陽が通る方角には欄干がつき、眺望が良い。物見としての機能もあったに違いない。とりわけ南東の方向には千波湖が見える。

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楽寿楼

弘道館 ー文武両道の場ー

翌朝、僕は弘道館へ向かった。大きな建物が林立する水戸駅周辺も、少しばかり離れると、蝉の大合唱が聞こえるようになる。水戸城の近くにあった弘道館は丘の上にあり、蝉や蜂、植物に囲まれていた。

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弘道館

弘道館に入るなり、まず目についたのは「尊攘」と力強く書かれた諸役会所。ここは来館者の控えの間であり、斉昭が書かせた「尊攘」の二文字は幕末のスローガンとなった。

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「尊攘」と力強く書かれている

本庁にある正席の間は藩主が臨席して文武の試験が行われた部屋で、掛け軸は弘道館記碑の拓本である。ここには「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問・事業一致」「治教一致」の5つの建学精神が示されている。

至善堂は藩主の休息所であり、諸公子の勉学所であった。御座の間は大政奉還で将軍職を辞した徳川慶喜が、恭順の意を表し、朝廷の命を静かに待った場所だそうだ。

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左)本庁・正席の間 右)至善堂・御座の間

弘道館には湯殿や便所があった。便所は大便用の部屋と小便用の部屋に分かれており、手洗い場もあった。このようなゾーニングは現代のトイレと何も変わらない。

弘道館は水戸学の本場であることから、幕末の舞台にもなった。会津戦争で敗れた保守派が水戸に舞い戻り弘道館に立て籠もり、水戸城に入っていた改革派と大手門を挟んで戦闘が行われた。この弘道館戦争で多くの建物が消失し、弘道館にも銃撃の跡が残っている。

花の匂いに導かれて

ひたちなか海浜公園

親鸞、水戸徳川家と昔の茨城が続いたので、気分転換に花で有名なひたちなか海浜公園へ。8月中旬のお盆の季節は、青いネモフィラや真紅のコキアの花畑を見ることは叶わないが、向日葵が見頃のよう。「ロンドン・ナショナルギャラリー展」でゴッホの向日葵を見てきた僕にとっては、向日葵だけでも見れれば十分だった。

海浜公園の西口入口は恐ろしいほど人気がなかった。これでは入場客より受付の係員の方が人数が多い。やはりネモフィラやコキアが色付いてない時季に来た故なのか、そして新型コロナウイルス流行の故なのか、僕にとっては観光しやすかった。

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左)西口入口 右)西口の池

みはらしの丘

折角なので、公園最大の観光スポットである「みはらしの丘」に行ってみることにした。西口入口から10分ほど歩いただろうか。あたり一面が緑の草原になった。まだ赤くなっていないコキアの花畑である。それはそれでマリモが並んでいるようで綺麗だった。

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緑葉のコキア

まだ丘にはコキアが植えられておらず、畑そのままの状態の区画もあれば、小さいコキアが植えられていたりと、紅葉の季節に向けて生育中だった。コキアの丘を歩いている人々も、絵画のような世界で大変美しい。僕にはその光景が「風立ちぬ」のヒロインである菜穂子と重なった。

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「風立ちぬ」の1シーンのよう。傘が風で飛んで行ったらなお。

みはらしの丘の近くには、古民家が数件並んでおり、大昔の日本の風景を再現しているかのようだった。夏の白川郷はこんな感じなのだろうか。せっせと汗を垂らしながら田植えをしている里人の姿が思い浮かぶ。

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里の家

泉の広場フラワーガーデン

みはらしの丘から20分ほど歩くと、ようやく向日葵畑のある南口エリアにやって来た。しかし、どこを見回しても向日葵が見当たらない。一体どこへ?と南口をウロチョロしていると、ごく小さい片隅に黄色い花が見えた。

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泉の広場フラワーガーデン

みはらしの丘のコキアのような、あたり一面の向日葵畑を期待していたのだが、向日葵はポツン、ポツンとしか咲いていない。例年ではこの時季には咲いているそうだが、今年は梅雨明けが遅かったせいか、向日葵たちが申し訳なさそうに咲いている。しかもどこが南か分からなそうに咲いている。季節や天気が関係する絶景は慎重な判断が必要なようだ。

最も盛況だったプレジャーガーデン

相変わらずどこへ行っても人が少ない園内であったが、園内のどこにいても見える観覧車の近くまで来ると、子供の楽しそうな声が飛び交っていた。ここだけは水戸駅周辺のように人気が多い。BMX、ミニゴルフ場、遊園地、観覧車とファミリーを中心に人で溢れている。みはらしの丘などはカップルが多かったが。

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左)プレジャーガーデンエリア 右)園内のどこからでも見えた観覧車

潮の匂いに導かれて

鹿島臨海鉄道

水戸駅に戻ってくるなり、今度は鹿島臨海鉄道で大洗町へ。普段神奈川や東京で生活している僕には、カルチャーショックだったのが、鹿島臨海鉄道の車両だった。

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鹿島臨海鉄道

車両内には整理券を受け取る装置や、運賃を投入したり、両替をする機会が置かれていた。バスのようである。また、バスのように行き先と運賃が記載されている電光掲示板も備え付けられていた。

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運賃箱

水戸駅を出発するなり、すぐに田園風景となった。田んぼを横断するように伸びた一本の橋。それが鹿島臨海鉄道の線路だった。空が晴れわたり、田んぼに水が張っていたら、鏡のように電車が2台映っていただろうと想像してみる。地元の東海道線や小田急線、地下鉄では見ることの出来ない光景である。

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大洗磯前神社

大洗駅に着くなり、「ガールズ&パンツァー」のキャラクターたちが僕を歓迎した。僕のそのアニメを見たことはないが、この町の観光スポットが作中で描かれているようだ。大洗磯前神社もその1つ。鎌倉高校前の踏切のように、鳥居の前には多くの若者が集まっていた。

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鳥居の前の近くまで行きたいと思ったが、神様が降臨した神聖な場なので立ち入り禁止だった。「文徳実録」によると、856年の12月29日に大洗磯前に御祭神大己貴命・少彦名命が御降臨し、里人の一人に神がかり、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造り訖へて、去りて東海に往きけり。亦帰り来たれり」と託宣され、鳥居が創建されたそう。

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大洗磯前神社

大洗マリンタワー

磯前神社から南へ歩いていくと、巨大な建造物が見えた。大洗マリンタワーだ。ここも「ガールズ&パンツァー」に登場した大洗のシンボルであり、建物の中は「ガールズ&パンツァー」一色だった。

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大洗マリンタワー

50m地点に設けられた「Panzer vor」は、ガルパンテイストの喫茶店で、ドリンクの他に軽食や食事を楽しめる。店内ではガルパンキャラの会話が流れ、席は舞台となった学校を意識してか、懐かしい学校の椅子と机になっている。窓外には大洗の港と太平洋が広がり、僕が今しがた居た大洗磯前神社の大きな鳥居が見えた。また、僕が訪れた際には「さんふらわあ」が停泊していた。

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左)大洗磯前神社 右)さんふらわあ

55m地点にある展望台は、大洗の町を360度見渡せる。高さはあの大仏の半分程度だが、その低さはかえって地上の事物を具に観察できる。

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左)大洗サンビーチの向こうには発電所が見える 右)鹿島臨海線が田んぼの上を通っている

100m超の日本三名瀑!袋田の滝

JR水郡線と滝川

水戸からJR水郡線の電車に揺られること1時間。水戸周辺で見ることのできた関東平野は姿は消し、車窓からは木々や山々が通り過ぎる。ああ、人が住むところから植物や虫、動物が住む世界に来たんだなあと心に深く染み入った。山の間を流れる久慈川が電車と並走し始めると、目的地はもうすぐである。

2020年8月14日時点では、大豪雨の影響から線路が崩壊し、袋田駅から先には進めない。先に進むには代行バスを使わなければならないのである。

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袋田駅のホームから。奥で線路が途切れているのが分かる。

袋田駅は相当な田舎だった。駅舎内は蜘蛛の巣が張り巡らされているし、少ないときは2時間に1本しか電車が来ない。東京で働いている僕には新鮮だった。

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袋田駅

電車が到着するのを待っていたかのように、路線バスが駅前で停まっていたが、何となく滝まで歩くことにした。一人旅だと、このような思いつきに他人を巻き込まずに済むから気が楽だ。

駅から少し歩くと、ホームから見えた水郡線が途切れている箇所に出会った。おそらく踏切であっただろう箇所が、アスファルトで埋められ、人も車も通行できるようになっていた。崩壊したのは久慈川に架かる橋梁のようだ。復旧工事が進んでいるようだが、お盆休みなので当然誰もいない。復旧したら福島県まで水郡線で行ってみようかな。。。

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豪雨で崩壊した水郡線

袋田駅から袋田の滝までは約4kmの道程となる。この時は記録的な猛暑で関東全体に熱中症警戒アラートが発せられていたと思う。鋸山登山と同じように汗をかきまくっていた。先日購入したモンベルの登山服がいい具合に汗を吸収・蒸発してくれていた。

道半ばほどで「思い出浪漫館」という有名な宿に辿り着いた。この辺りからは滝川沿いに道を進むことになる。一旦、休憩したかったのでフラーっと見学してみることにした。

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思い出浪漫館・外観

入ってみてすぐに分かったのは、ここは僕のようにホンダのフィットに乗るような平民が来るところではないということだ。ベンツのGクラスやポルシェのカイエンに乗るような有閑階級が来るところのようだ。だが、ちょうどチェックアウトとチェックインの間の時間帯だったのか、ホーンテッドマンションのように人が見当たらなかった。

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思い出浪漫館・内観

滝川沿いに歩道を歩いていると、次々と車が追い越していく。水戸ナンバー、つくばナンバー、品川ナンバー、横浜ナンバー。水郡線のガラガラ具合からは想像できないほど車が通る。袋田の滝から1km離れた駐車場も満車だった。滝に近づくにつれ車は増えていき、駐車場待ちの車がちらほら。人も増えてきた。

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車や人以外にもお土産店や飲食店も増えてきた。袋田一帯でどこのお店にも置いてあったのが鮎の塩焼きだった。せっかくなので食べてみようと他人は思うかもしれないが、4km歩いてきた僕はそんな食欲はなかった。

日本三名瀑の袋田の滝

検温もパスし、いよいよ袋田の滝へ。長さ276mの観瀑トンネルを進む。中は鉱山のトンネルのようで、最近見た「黒部の太陽」を思い出す。ここも三船敏郎や石原裕次郎が演じたような男たちが掘り進んで作り上げたのだろうか。茨城県建設コンサルタントが設計し、鴻池組が施工し、1979年12月に完成したそうだ。

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袋田の滝トンネル

トンネルを200mほど進むと、右手に横道が現れた。僕はそちらへ寄り道をすることにし、横道を下って行くと、トンネルの出口で視界が広がった。目の前には滝川に架かる吊り橋があり、そこから多くの観光客が袋田の滝を見ていた。

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吊り橋からは、袋田の滝が見えた。

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袋田の滝

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袋田の滝と第1観瀑台

4回水が落ちることから「四度の滝」とも言われているそうだが、なるほど、水が崖を段々と落ちているのが分かる。近世には水戸藩主も領内巡検の途上に訪れたそうで、光圀、斉昭らは和歌を詠んだそうだ。

観瀑トンネルに戻ってすぐ、トンネルの突き当たりを右に曲がると、ついさっき吊り橋から見えた第1観瀑台へと出た。この観瀑台は袋田の滝のスケールを最も感じることができる場所で、カメラレンズを可能な限り広角にしてもフレームに入りきらなかった。

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高さ120m、幅73mの滝を縦におさめてみた。

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第1観瀑台で、ポーズをしっかり決めて写真を撮っている4人組の女子大生がいた。家族連れや、一人旅、年配夫婦などが多かった袋田の観光客の中で、彼女らは人目をひいていた。僕が彼女らをぼうっと眺めていると、そのうちの一人が写真撮って下さいとスマホを渡してきた。僕はハイチーズと彼女らと滝を写真におさめた。

観瀑トンネルに戻り、エレベーターに乗ると第2観瀑台に着いた。こちらでは、袋田の滝を俯瞰して見ることができた。

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第2観瀑台からの眺め

袋田の滝が「四度の滝」と言われる由来は、四段に落下すること以外にも幾つかある。一つは西行法師が袋田を訪れた際に「この滝は四季に一度ずつ来てみなければ真の風趣は味わえない」と絶賛したのが由来。もう一つは空海が四度護摩修行を行ったのが由来、とされている。

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別名「四度の滝」

第2観瀑台から下るエレベーターを待っていると、僕の前の方に先の女子大生たちが並んでいた。彼女らは僕の方を見てからジャンケンをし始めた。また僕に写真を撮って下さいとお願いする気だろうか。ジャンケンに負けた子が恥ずかしそうにしながらこっちを見ている。勝った3人の女子たちが「早く行けよ」と囃し立てる。負けた子が俯きながらこちらへ近づいてき、そのまま僕を通り過ぎ、僕の後ろの方に並び、ニコンのカメラを手に持っていたイケメン一人旅青年に話しかけていた。その子が恥ずかしそうに「写真撮って下さい」とイケメンにお願いする。フン。

茨城県風土記

かつては常陸国と呼ばれていた茨城県だが、水戸学の本場であった故に、水戸には江戸時代の建築物が多く残されていた。尊王攘夷をスローガンとした水戸学が無ければ、徳川斉昭の次の大名である徳川慶喜は大政奉還を決断しなかったかもしれない。また茨城は、大洗のような海もあれば袋田のような山もあり、自然が豊かであった。東京から水戸への道中は筑波山や霞ヶ浦を過ぎ、左右に関東平野が広がっていたが、水戸から水郡線で北上して行くと、平野は姿を消していき、左右には山々や森が広がり、久慈川が穏やかに流れている。僕は帰りの電車で吉川英治の「平の将門」を読みながら、茨城の旅を思い返していた。

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 次回の旅行記はこちら

k756.hatenablog.com

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