川井書生の見聞録

映画評論、旅行記、週刊人生の記録を中心に書いています。

社会人になって初めての旅行は、真夏の北海道函館(書生の旅行記7)

 今回はちょっと過去の思い出。社会人になり、実家暮らしの僕にとっては、毎月毎月アルバイト代とは比べものにならない金額の給料を貰えた。夏にはボーナスももらい、学生の頃にあまりできなかった贅沢をしてみようと思った。家具を購入したり、高価な本を買ったり、豪華な食事をしたり。その中の1つが旅行だった。僕は夏のボーナスを使って、函館に行くことにした。

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五稜郭

社会人の贅沢

 羽田空港から函館空港に降り立ち(飛行機に乗ったのは一体いつぶりだろう?)、バスで函館駅に着いた。函館駅は「函館」のイメージを象徴したかのように船がモチーフになったデザインだった。

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函館駅。黒い筒が汽船の煙突だろうか。

 函館は1859年に開港され、船に乗った外国人たちが、彼らの文化をこのコンパクトな港町にもたらした。中心街にはキリスト教の教会もあれば、横浜にあるような赤煉瓦倉庫もあった。少し離れると西洋城郭の五稜郭もあり、街の作りは、函館と同じ港町である横浜に似ているように感じた。

 昼食は函館で有名なローカルフードを食べた。「ラッキーピエロ」というお店なのだが、ジョーカーのようなピエロが入口に立っている色が騒がしい外観だった。僕はそこでラッキーエッグバーガーを食べた。味はもう覚えていない。なにせもう2年前のことだから。

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左)ラッキーピエロ外観 右)ラッキーエッグバーガー

函館にあるハイカラな西洋文化

 1854年の日米和親条約により、江戸幕府は下田と函館の開港を決定、1859年に日本初の対外貿易港として横浜・長崎とともに函館が開港した。そのためか、僕の家に比較的近い横浜に似通った点が函館には見られた。

 例えば、外国人居留地の名残とも言える洋館が山手に密集している点。横浜元町と呼ばれるエリアは山手に建てられた洋館が林立する場所であり、三島由紀夫の「午後の曳航」などに登場している。函館元町も同様に八幡坂など坂を上った場所にキリスト教の教会や領事館といった洋館が集中している。黒澤明の「天国と地獄」の権藤のように、丘の上に住む上流階級が、函館では外国人だったのだろうか。

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八幡坂

 函館元町の中心の坂である基坂を登ると、元町のランドマークとも言える旧函館区公会堂がある。1907年に町会所が消失したため、住民有志と当時の豪商・相馬氏からの寄附により建築され、1911年には皇太子殿下(大正天皇)の宿舎として、1922年には摂政宮殿下(昭和天皇)の御来道にも使用された。現在はコンサートホールとして利用されているそうだ。

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旧函館区公会堂

 洋館ではあるが、当時の日本人にとって洋館というのは過ごしにくかったのだろうか、中にあるトイレなどは日本式であった。水戸の弘道館などと同じ、大便器と小便器がここにも見受けられたのだ。日本人が西洋式生活に慣れるのも、時間を要したのがうかがえる。

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左)2階の大広間から 右)公会堂のトイレ

 坂を下ると、港町としての函館が姿を現す。港には海上自衛隊の基地があり、海上自衛官の白い制服が太陽に反射して眩しかった。函館市電が街中を通り、赤レンガ倉庫が商業施設として使用されたいた。なんだ、横浜と同じようなものではないか。

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函館の赤レンガ倉庫群

青函連絡船・摩周丸

 港を北へ歩いて行くと、摩周丸が見えてきた。摩周丸は青函連絡船の1つであり、1965年から1988年まで青森と函館をつないでいた。青函連絡船自体は1908年比羅夫丸の就航に始まる。北海道開拓事業の本格化により、車両を積み込める祥鳳丸が1924年に就航。祥鳳丸の船内には3本の線路が敷かれていた。

 戦後、豪華客船である洞爺丸が就航したが、1954年の台風15号により沈没。この事故を契機に最新設備を備えた津軽丸が1964年に就航。摩周丸も津軽丸型連絡船の1つである。しかし、1970年代前半を境に、貨物輸送や旅客輸送の数は減少していき、1988年にその役目を青函トンネルと航空機に譲った。

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摩周丸模型

 摩周丸内部は国鉄らしく電車のようなグリーン席システムがあったり、当時の地図、操舵室などを見学することができた。摩周丸の甲板からは函館山が望見できたが、傘のような雲が函館山にかかり、山頂をお目にかかれなかった。

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函館山(摩周丸から)

日本三大夜景 ー函館山からの眺望ー

 夜になっても雲は函館山を覆っていたが、明日帰京してしまうので、ダメ元で函館山に登ってみた。三島由紀夫の「夏子の冒険」の時代とは違い、今ではロープウェイで何の苦労もせずに山頂に辿り着けた。日本三大夜景(一説では世界三大夜景)とも称される函館の夜景は、厚い雲に遮られ、そこには何もないかのような景色が広がっていた。まるで抽象映画の背景美術のようだった。

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そこには何もないかのような景色だった。

五稜郭 ー戊辰戦争最終決戦の地ー

 一夜明けて。僕は函館観光の眼目である五稜郭へ来た。榎本武揚や土方歳三など幕府軍が最後の拠点とした場所。司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んでいた僕は、体を現代に置いて、心を150年前にタイムスリップさせた。土方歳三が駆けた地を僕が150年越しに踏んでいると。自然と一歩一歩が厳粛になった。

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五稜郭

 上の写真を撮影した五稜郭タワーでは、五稜郭の歴史が紹介されていた。それを少々、紹介したい。

 江戸幕府が函館と蝦夷地を治めるために任命した箱館奉行は、開拓事業の他に箱館の防衛力強化を計画した。それに対し、蘭学者の武田斐三郎は欧州の城郭都市をモデルにした新しい要塞の設計図を考案した。1857年に五稜郭の建設工事が始まり、1864年に完成。戊辰戦争の旧幕府軍が蝦夷地に上陸すると、彼らを率いる榎本武揚が五稜郭に入城。旧幕府軍は松前藩を攻略、嵐による座礁で軍艦「開陽」を失ったものの、蝦夷地を平定した。

 1869年3月。新政府軍が上陸し、箱館では一進一退の攻防が続いた。しかし、箱館は新政府軍に占領され、土方歳三も戦死する。5月には榎本武揚ら旧幕府軍は降伏し、五稜郭を明け渡した。

 箱館戦争の終了後、五稜郭の堀では、冬に天然氷の切り出しが行われ、「五稜郭氷」の名で売り出すほどの産業になったそうだ。

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五稜郭タワー

 五稜郭タワーには、展望台と歴史回廊以外にも、アイスクリーム屋、お土産屋といった商業施設があった。他には大砲が展示されていたり、コンピューター手相占いが行われていたりした。僕は試しに手相占いをしてみた。

 結果をまとめると、僕は好き嫌いがはっきりしていて、それが原因で人生に浮き沈みや波乱があるそうである。一見物静かそうであるが、内なる熱意を秘め、チャンスを掴めれば大成する可能性もあるそうだ。

 このブログをきっかけに紀行文などを書けたら幸いだ。

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