Go To 北海道の7日間も残り2日。旅の終盤を飾るのは北海道が誇る世界自然遺産・知床。僕は知床八景を中心に、じっくりと知床を堪能するつもりだったが、この2日間は生憎の悪天候。知床五湖の景色は分厚い雲に台無しにされ、知床岬のクルージングは高波に遮られた。それでも北海道の果てに存在する自然を、全身で感じることができた。
知床観光前夜
1週間の長旅も最終目的地にして最大の目的地に到着した。オホーツク海に面するウトロの夜は夏でも涼しく、シャツの上に上着を2枚羽織る程だった。僕は丘の上にあるKIKI知床ナチュラルリゾートでチェックインをした。
部屋は快適だった。ナチュラル和室という部屋だったのだが、明らかにここは1人で泊まるような部屋ではなく、洗面台が2つも用意されていた。僕はその広々とした和室に寝そべり、夕食の時間を待った。
夕食はいつものようにビニール手袋をはめ、マスクを着用するバイキング形式だった。僕は鹿肉ハンバーグのホワイトシチュー、鹿肉のパエリア、鹿肉のすき焼き、ラム肉の春巻きなどをよそった。北海道に来て以来、鹿ばかり食べている。最後、料理人にラクレットチーズを溶けたてホヤホヤで貰った。
正直、どれも美味しいのだが、ラクレットチーズが美味しすぎた。ピザなどで溶けたチーズというものはよく食べていたが、このチーズはそのとろけ具合の格が違った。クリームかと思えるほど溶けているのだ。かといってチーズが固まった後に食べてもそれはそれで美味しいのだ。
夕食後、僕はフロントや売店をうろうろしてみた。ここは他の観光地と違って外国人が多かった。時期も時期なので日本在住の外国人なのだろう。彼らはホテルのロビーに座って談笑していた。ロビーでは知床の映像が上映されていた。
お土産店では昆布漁師が昆布を擦っていた。知床半島のもう1つの拠点、羅臼の昆布らしい。昆布漁師は今作ったばかりの昆布を味見させてくれた。なるほど、確かに粘り気があって美味しい。僕が今食べたのは羅臼昆布という高級昆布らしい。僕は昆布漁師の熱意に打たれて羅臼昆布を購入した。
ナチュラル和室に戻った僕は、翌日の天気予報を見て気分が落ち込んだ。明日は雨だと言うのである。僕は雨でも知床を観光すると決めていたので計画に変更はなかったが、明後日のクルージングが中止になることだけは避けたかった。僕は不安を残しながら床についた。
雨にも負けず、高波にも負けず、知床八景を巡る
ペレケ川で魚の遡上を観察する
翌朝の朝食はあっぺ飯という、白米の上に鮭などを乗せて食べるお茶漬けのようなものを食べた。このあっぺ飯、出汁自体もさることながら、その出汁がかかった鮭も特上に美味かった。
満たされたお腹で僕は知床観光の拠点である知床世界遺産センターへとやって来た。
知床半島は長さ約65km、基部の幅約25kmの半島で、知床連山と海岸部から成り立っている。哺乳類や魚類などの陸海の希少生物の宝庫であり、また多くの渡り鳥の生息地として重要視され、2005年に世界自然遺産に登録された。
冬には隣接するオホーツク海が流氷に覆われる。流氷に覆われる地域としては、北半球で最も低緯度に位置していることも、この知床が貴重な点である。この知床半島には様々な動物が暮らしており、特に羆の生息密度が非常に高い地域として有名である。
この世界遺産センターでは、知床の自然のほか、観光名所なども知ることができる。僕は知床八景を始め、ここからすぐ近くのペレケ川で鮭やマスの遡上を見ることができると知り、早速ペレケ川へ来た。
ペレケ川には鮭かマスかは定かではないが、多くの魚が川の段差の前で渋滞を引き起こしていた。お盆最終日の東名高速道路の上りみたいだった。しかし、僕らは右足を踏めば前に進めるが、彼ら魚にとっては命を懸けた生命の営みなのだ。彼らの中には精魂果て川底に沈んでいる者もいた。カラスにその身を啄まれている者もいた。より上流に行けば羆の胃袋に入る者もいるだろう。
魚たちの生涯の一大挑戦は人間の僕を感動させた。一度は川の段差を乗り越えても、川の流れの勢いに押され、再び段差の下に落ちて来てしまう魚もいた。しかし彼らはもう一度段差を越えようと必死に跳躍を試みるのだ。僕は気付いたら30分もそこにいた。
知床八景① ーカムイワッカ湯の滝ー
僕は世界遺産センターに止めていたタンクを動かし、いよいよ知床国立公園の敷地へと足を踏み入れた。途中、知床八景であるプユニ岬を通り抜けたが、雨の為、景色が悪かった。途中、イワウベツ川を越え、知床五湖の近くまで来た。そこで知床五湖へ行く整備された道とカムイワッカ湯の滝へ続く砂利道とに分岐していた。僕はゆっくりと砂利道へと車を動かした。
インディ・ジョーンズに出て来そうな道だった。左右は知床の木々に囲まれ、時折エゾシカが顔を出す。野生動物というのはいつもいつも餌を食べているようだ。羆を見てみたいと思ってはいたが、彼らはこの道沿いには現れなかった。
砂利道の終点にそれはあった。実に多くの車が停車していた。僕も彼らに倣ってタンクを止め、カムイワッカ湯の滝を間近に見る。
カムイワッカとはアイヌ語で「神の水」という意味のようだ(僕はこれによって「ファイナルファンタジー10」のワッカという人物名がアイヌ語から来ていることを知った)。この滝の水には硫黄山から湧き出す温泉が混ざっており、足をつけるとぬるく感じた。駐車場付近の滝は緩やかな傾斜であるとともに水深が浅いので沢登りを気軽に楽しめる。
カムイワッカ湯の滝から知床五湖へと至る砂利道で、初めて雄のエゾシカに遭遇した。この時期は交尾の季節だからか立派な角がついている。モンハンの曲を車内で聞いていた僕は、その角がケルビの角にしか見えなかったが。
知床八景② ー知床五湖ー
知床五湖は、神様が指をついてできたという伝説を持つ。風のない日は知床連山が水面に映し出される「逆さ連山」を見ることができるそうだが、この日は雨も降り、知床連山に雲もかかっていたので「逆さ連山」を拝めなかった。
高架木道の左右には羆よけの電気柵が設けられており、誰でも無料で歩くことができた。知床一湖以外の五湖を見るには遊歩道を歩かなければいけないのだが、この日は雨のため遊歩道がぬかるんでおり、僕は諦めた。
知床八景③ ーオロンコ岩ー
お次の知床八景はアイヌ語で「そこに座っている岩」を意味するオロンコ岩である。この岩は約60mあり、ウトロの町にドカンと存在している。このオロンコ岩の周囲には渡り鳥や海鳥が多く飛んでおり、オロンコ岩の裏にはびっしりと鳥の糞がこびり付いていた。
200弱の階段を上るとオロンコ岩の頂上に到達した。そこからはオホーツク海、知床の山、ウトロの町が展望できた。残念ながら山は雲で隠れていたが。
知床八景④ ーオシンコシンの滝ー
アイヌ語で「そこにエゾマツが群生するところ」という意味を持つオシンコシンの滝は、日本の滝100選に選出されている名瀑。落差30mの断崖から落ちる水は途中で二筋に分かれるため「双美の滝」とも呼ばれる。滝壺に落ちた水は国道334号線の下を通りオホーツク海に注ぎ込む。
知床八景を半分回ったところで、僕は流石にお腹が減ってきた。太陽はすでに頂点を越え、西へ移動し始めていた。僕はウトロにある道の駅うとろ・シリエトクに寄った。そこで北海道の名物でまだ食べていないものを探した。
ジンギスカンは無かったが豚丼があったので僕はそれを注文した。本当は帯広名物かもしれないがそれはこの際良いだろう。美味しかったから。
知床八景⑤ ー夕陽台ー
知床八景の旅は後半戦へ。僕はオロンコ岩と肩を並べる夕陽スポットである夕陽台へとやって来た。相変わらず雲が空を覆っていたので夕日を見ることは諦めていたが、それを抜きにしても景色が良かった。オロンコ岩の存在感が際立っている。
少し天候が回復してきたので、僕は知床峠に行ってみることにした。知床峠からは北方領土や羅臼岳が見えるそうである。今なら見えるかもしれないと思ったので、僕は再び知床五湖方面へとタンクを走らせた。
その途中、明日のクルージング会社から電話がかかってきた。どうやら明日のクルーズは催行できるか怪しいよう。高波が予想されているそうだ。相手に「明日の8時に催行するか否かの電話をします」と言われ、電話が切れた。僕は知床観光のハイライトを奪われる気がして気分がどんよりした。
知床八景⑥ ー知床峠ー
知床峠は標高738m地点にありハイマツの樹海が広がっている。僕が訪れた際にはウトロ側の雲が羅臼側に流れていた。つまり北風が吹いており、オホーツクの風はとびきり寒かった。ここには長袖と上着だけでは足りなかった。夜のように3枚必要だった。
知床峠からは羅臼岳が見えた。この日の羅臼岳は雲で見え隠れしていたが、それがこの山をさも幻であるかのように見せていた。
知床峠からはもう1つ見えるものがあった。それは北方領土である。ここから見えるのは国後島で、島が見えるというよりは大陸が見えるというような感じだった。いつか国後島へも行けるようになると嬉しい。
イワウベツ川にヒグマ出現の報!
僕がカメラを構えて写真を撮っていると、1台のバイクが僕の近くに止まった。ライダーはどうやら僕に用があるらしく、僕をじっと見ていた。僕もじっと見返しているとライダーは徐に口を開いた。
「羆が出たらしい」
僕はどこで出たのか尋ねた。すると知床五湖へ行く道の途中にあるイワウベツ川で出没したらしい。ライダーは二輪に乗っていたので羆が怖くて早々にその場を去ったが、川の近くでは多くの観光客が集まっているらしい。
僕はライダーにお礼を言い、イワウベツ川に急行した。川の近くには車が何台も止まっていた。彼らは皆羆を見に来たようだった。
僕は釣り人の恰好をした観光客に訊いてみた。するとその釣り人は答えた。「さっきまで見えたんだけどいなくなっちゃったよ」と。イワウベツ川を遡上してくる鮭やマスを狙ってこの辺りに来たのかもしれなかった。だが、僕の前に羆は現れることなくその日は終了した。僕は羆を見る機会を翌日の催行する望みの薄いクルージングにかけることにした。
知床八景⑦ ープユニ岬ー
翌朝8時、クルージングの会社から電話がかかってきた。僕は布団の中から手を伸ばして電話に出た。相手はいささか言いにくそうに会社名を告げた。僕はその声のトーンで結果がなんとなく分かった。案の定催行中止だった。高波のためクルーザーが運行できないそうだ。僕は他の会社も催行中止なのかその人に訊いてみたが、それはその会社に聞いてみないと分からないそうだ。
僕は他の会社に片っ端から電話をかけた。どの会社もクルーザーは運行できないようだった。しかし、クルーザーより大きな船を運行している会社は、大型船のみ臨時コースで運行していた。臨時コースとは知床半島の先端である知床岬まで行くわけでもなく、羆が高確率で出没するルシャ湾まで行くわけでもなく、リーズナブルなコースである硫黄山まですら行くわけでもなく、昨日羆の目撃情報があったイワウベツ川まで行くコースであった。僕は本当は知床岬まで行きたかったのだが、この際やむ終えない、その臨時コースで予約をした。
乗船時間まで時間があったので、僕は知床八景のプユニ岬まで行った。プユニ岬からはオロンコ岩の裏側が見えた。そこから大型船が出港し、イワウベツ川へ向かうのだ。
知床八景⑧ ーフレペの滝ー
オロンコ岩の裏側に来た僕は、知床観光船おーろらに乗船した。船内は1階客室、2階客室、展望デッキに分かれていたが、雨は止んでいたので皆がデッキに上がっていた。
まもなく、おーろら号は出港した。船の周囲を足に水かきのついた海鳥が飛び回り、オロンコ岩が徐々に小さくなっていった。それとは対照的にプユニ岬が少しずつ大きくなってき、クルージングツアーがいよいよ始まった。
今朝、僕がそこからウトロを眺めたプユニ岬を超えると、知床半島の断崖絶壁が地の果てまで続いていた。その断崖には千葉の屏風ヶ浦のような優しさは一切なく、人を寄せ付けない厳しさを感じさせた。その断崖に住むことができるのは鳥たちのみで、崖のいたるところに鳥の糞がこびりついていた。そしてその断崖の上にはウトロ灯台が謙虚に立っていた。
プユニ岬とウトロ灯台の間に小さな窪みがあった。そこには僕がまだ見ていない最後の知床八景「フレペの滝」が流れていた。そのしとしとと流れる様からこの滝は「乙女の滝」とも名付けられるようになった。それを見た隣の観光客は「昨日より水が少ないな」と呟いていた。今日の乙女は悲しいことが少ないようだった。昨日は空さえも泣いていたのだから。
フレペの滝、ウトロ灯台を通過すると「男の涙」とも呼ばれる「湯の華の滝」が現れた。確かに武将肌の人が泣くように、派手に水が岩肌を流れている。この水はカムイワッカと同じように温泉が流れているようだ。
その先、折り返し地点のイワウベツ川の手前にはクンネポールがあった。ここは波が岩を浸食してできた穴で、中にはコウモリが住んでいるらしい。
そしておーろら号は最後にイワウベツ川にやって来た。僕はもしかしたら羆が見えるかもと淡い期待を抱いたが、遂に知床で羆を見ることは叶わなかった。
女満別空港へ最後のドライブ
知床の歴史
僕は知床をさよならを告げ、女満別空港へ向けて走り出した。国道334号の道中、「天に続く道」という看板があった。この道は20km以上先まで真っ直ぐ地平線の果てまで続いているため、まるで雲の上まで道が続いているかのように見えるのだ。
その真っ直ぐの道をずっとアクセルを踏んで駆けていくと、斜里の町へと辿り着く。まるで砂漠の中を延々と歩いた末に辿り着いた町という感じだ。ただ一心に真っ直ぐ進んでいるのにも関わらず、中々町に近づけないのだ。
この町には知床博物館があった。館内では知床の自然とともに知床と人間の関わりの歴史を紹介していた。その歴史はアイヌ文化から始まり、江戸時代には本州や松前藩の商人による漁場経営が本格化していき、1800年代から1900年代始めの斜里はサケ・マス・ニシン漁が盛んだったようだ。
1856年、松浦家の四男・武四郎が蝦夷探検の最中、斜里へ入り、詳細な記録を残した。その2年後、1858年に武四郎は四度知床に入り、これまで未知の世界とされてきた蝦夷地を余すことなく調べ、北海道開拓の道しるべを残した。
明治時代に入り、1877年に斜里農業の父と呼ばれる鈴木養太が入植した。当初は炭焼きや造材などとの兼業だったが、やがてアメリカ式開拓事業が進み、斜里にも大きな農場ができた。現在は馬鈴薯・ビート・小麦が斜里を代表する穀物となっている。
斜里は漁業・農業の他に林業も行われており、1890年代以降に盛況を迎える。マッチの軸材や枕木にするために木々が伐採され、主に清へ輸出されていた。1920年代以降は衰退していくが、一時期だけ軍需や鉛筆材の需要などで回復したこともあった。
斜里で働く人々のために、商店・旅館・役場・学校・料理屋などが並ぶ市街地ができたのは1890年代以降だった。その後、木材の需要増大や第一次世界大戦の特需により斜里は栄えた。1918年には斜里に電灯がつき、1920年には電話が繋がれ、1925年には網走と斜里の間に鉄道が開通した。
エゾシカの生態
知床博物館には、この北海道旅行で幾度となく出会ったエゾシカの生態についても紹介されていた。エゾシカはニホンジカの1亜種であり、日本国内に分布する亜種のうち最大である。明治初期には大雪や狩猟により絶滅の危機に陥るが、徐々に個体数は回復していき、今では道東を中心に爆発的に増加している。この増加によって現在では農林業被害や交通事故を引き起こしており、人間との軋轢が生まれている。
エゾシカは積雪期になると越冬地と呼ばれる標高の低い樹林帯に集まって冬を越す。この時期は主にササの葉や広葉樹の樹皮を食べて飢えをしのいでいるが、天気が良くなると浅い雪を掘り返して草を食べることもある。雪解けの早い道路の側で草を食べようとし、交通事故に遭う個体もいる。
雪解けが始まるとエゾシカは体力的に最も厳しい時期を迎える。秋に蓄えたエネルギーが底をつき、餓死する個体も目立つようになる。雄の枯角も脱落し、ビロード状の皮膚に包まれた袋角が生え始める。雌はこの頃出産期を迎え、生まれた子鹿は最初はじっと隠れている。2週間ほど経つと子鹿も母親と一緒に行動するようになる。
秋がやってくるとエゾシカは交尾期に入る。有力な雄鹿は複数の雌鹿を囲い込んでハーレムを形成する。130kgの体が衝突する雄同士の争いも激しくなり、交尾期特有の鳴き声であるラッティング・コールも聞こえてくる。そして、エゾシカは再び越冬期を迎えるのだ。
1800kmの旅路
漁業と林業、そして農業で栄えた斜里の町を後にし、僕は相棒のタンクと最後のドライブを楽しんだ。モンハンのゲームクリア時の音楽が流れる。何だか永遠のお別れがやってきたようだった。女満別空港で車から降りた時、ピカピカだった黒いタンクは戦地の砂をその身に纏った戦車(タンク)のように見えた。
僕は女満別空港でジンギスカン丼を注文した。僕はタンクに乾杯をしてジンギスカン丼を食べた。
1日目:新千歳空港→登別温泉→洞爺湖
2日目:洞爺湖→積丹半島→小樽→札幌
3日目:札幌→美瑛→層雲峡
4日目:層雲峡→十勝→釧路
5日目:釧路→阿寒湖→屈斜路湖→摩周湖→知床
6日目:知床
7日目:知床→斜里→女満別空港
と北海道を7日間周遊したタンクは約1800km走っていた。彼は僕に絶景と美食を始め、北海道の大自然と歴史を教えてくれた。
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