神経症的な男子大生ギャツビーとインテリな女子大生アシュレー。このカップルはいかにもウディ・アレンの映画にふさわしい登場人物だ。また、アシュレーに振り回されるギャツビーの心情を映像で表現しているのが、撮影監督のヴィットリオ・ストラーロである。今回はギャツビーの感情の流れをストラーロがどのように表現しているかを考察したい。
7/3(金)全国公開/予告編『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』
⑴ 赤い女・アシュレー
色彩の魔術師
映画を見始めた観客はまず最初にこの映画の赤さに気付くだろう。レンガ造りの大学は赤く、映画監督にインタビューする部屋も赤いインテリアが際立つ。そして何よりも画面全体に赤いフィルターが使われている。この映画は何よりもまず赤いのだ。
これは撮影監督ヴィットリオ・ストラーロの方針で間違いない。彼のキャリアはイタリアの巨匠ベルナルド・ベルトルッチの作品から始まり、彼らの共作は『ラスト・エンペラー』(1987)で頂点に達した。この映画はアカデミー作品賞をはじめ、監督賞、美術賞、撮影賞、衣装デザイン賞などを総ナメにした。
『ラスト・エンペラー』においてストラーロは黄色を皇帝の色として用いた。このように映画において、何かしらの色に意味付けをするのがストラーロ流だ。ベルトルッチとストラーロのタッグ作の1つ『リトル・ブッダ』(1993)では、アメリカが舞台のシーンは青色のフィルターで、チベットが舞台のシーンは赤色のフィルターで画面が覆われた。
今回の『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』も赤色のフィルターで覆われているが、なぜ赤色なのか?
ゲーテの赤
そのヒントはストラーロが影響を受けたゲーテの『色彩論』にある。ゲーテは赤色を、
その与える印象は厳粛と品位とならんで愛らしさと優美である。前者の印象を与えるのはその暗い濃厚な状態において、後者の印象を与えるのはその明るい薄められた状態においてである。こうして老年の品位も青春の愛らしさも同一の色彩に包まれることができたのである。
(J・W・V・ゲーテ『色彩論』木村直司訳、筑摩書房、2001年、388頁)
と分析しており、このドイツの詩人は、色彩をプラス側の暖色とマイナス側の寒色に二分別し、赤や黄色を暖色、青を寒色に分けた。つまり、ストラーロは赤色を暖かい色・愛の色と捉え、後述する雨や青の画面と対比させているのだ。
赤い女・アシュレー
赤い色のシーンは冒頭のギャツビー(ティモシー・シャルメ)とアシュレー(エル・ファニング)が一緒にいる大学の場面、そして多くの室内の場面がそうである。特にアシュレーが映画スターに口説かれる場面では、レストランのインテリアが赤い上に、アシュレーが赤ワインを飲む。
アシュレーは赤色を最も象徴している登場人物である。赤レンガの大学で彼女はギャツビーと共に歩き、赤いインテリアが目立つ部屋で彼女は映画監督にインタビューする。先ほど述べた映画スターとの赤いディナーもそうだ。
時には彼女も雨に濡れることがある。脚本家の不倫現場をスクープした時がそうだ。だが、彼女は一瞬しか雨に濡れず、すぐにホテルの屋根の下で雨を凌ぐ。映画スターに捨てられ雨に打たれながらギャツビーのいるパーティ会場に向かうが、びしょ濡れの彼女はピアノのある赤い部屋でギャツビーと和解する。愛の場面では常に赤色が存在し、そこにはアシュレーがよくいるのだ。
⑵ 2つの世界を往来する男・ギャツビー
ギャツビーの赤と青の世界
ではギャツビーはどのような存在なのだろうか?結論から言うと、ギャツビーは愛のある赤色の世界とその反対の世界を行き来する存在である。彼がアシュレーといる時はその周りに赤があることが多い。大学のキャンパス内、ピアノのあるホテルの一室。そこには確かに愛がある。
一方で、ギャツビーは寂しさを感じる時がある。それが最も顕著に表れているシーンは、ギャツビーがアシュレーと映画スターの熱愛報道をテレビで見た時である。ギャツビーは悄然とし、俯きながらニューヨークを歩く。その画面はこの映画では珍しく真っ青なフィルターに覆われている。
ストラーロがここでマイナス側の寒色である青色を用いた理由は何か?ここでもう一度ゲーテの『色彩論』に話を戻そう。ドイツ史上最も偉大な詩人は青色を、
青いガラスは対象をもの悲しげに見せる。
(J・W・V・ゲーテ『色彩論』木村直司訳、筑摩書房、2001年、385頁)
と述べている。つまるところ、ストラーロは青色を用いることによって、アシュレーに捨てられたギャツビーの悲しい心情を描いているのである。このシーンはギャツビーにとって最も辛い瞬間だった。
ギャツビーの晴れと雨の世界
ギャツビーとアシュレーの関係は赤と青という色彩で関係性が描かれていた。では、この映画のもう一人のヒロインであるチャン(セレーナ・ゴメス)とギャツビーの関係性はどのような方法で描かれているのか?
それを象徴するセリフがチャンから発せられている。「雨の中でキスしたら月並みだけどステキ」。そうギャツビーとチャン二人の空間には雨がつきまとっているのだ。彼らは映画の撮影でキスをするが、その直後に雨が降り始める。この映画のラストシーンは雨の降る中、時計台の下で二人がキスをする場面だ。
反対に、ギャツビーとアシュレーが二人で野外にいる時は常に雨が降っていない。それを象徴するのが「あとで馬車に乗れる?雨が降らなければ」というセリフである。彼らが一緒に外にいる時(大学の構内にいる時やセントラル・パークで馬車に乗っている時)は、雨が降っていないのである。
⑶ 雨の女・チャン
チャンが登場する時には必ず雨が降っている。映画撮影にエキストラ出演した際、ギャツビーとチャンはキスシーンを演じ、その直後に雨がパラパラと降ってくる。大雨のタクシーの車内で偶然乗り合わせる2人。そして、セントラル・パークの時計台の下で再会する2人。2人が時計台の下で演技ではない本当のキスをする頃には雨が降っている。
普通、フィクションで雨が降る時は必ずと言っていいほどネガティブなシーンになる。雨が登場人物の涙を代弁したり、雨の冷たさが彼らの悲しさを間接的に伝える。しかしながら、この映画において雨はポジティブなイメージを持っている。雨が降ることはチャンがいることであり、雨が降っていないことはアシュレーがいることである。アシュレーはギャツビーを赤色の暖かい世界から青色の冷たい世界へと突き落とした。それはギャツビーを晴れの世界から雨の世界へと誘うことよりも罪なことなのだ。
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<参考文献>
・J・W・V・ゲーテ『色彩論』木村直司訳、筑摩書房、2001年。