川井書生の見聞録

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シンジとレイとゲンドウの三角関係 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』感想・考察

 2021年3月8日に公開されるエヴァンゲリオンシリーズ新劇場版最終作。これでいよいよ全てのエヴァが終わる。ということで、筆者は最初のエヴァから振り返ることにしてみた。初めてエヴァを見た高校生の頃に比べると、今では多くのことが読み取れるようになっていてびっくり。今回は旧劇版の考察の続きで第2弾。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

  ⑴ 挟まれる社会という中間項

 1995年のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』は、しばしばセカイ系の元祖という評価を得てきた。それは主人公の心の声が多く、主人公とヒロインを中心とした小さな世界が、社会などの具体的な中間項を挟むことなく、世界の終わりにという人類の問題に直結している作品ということである。そして、エヴァの世界観や碇シンジというキャラクターは『美少女戦士セーラームーン』の日常と非日常の同居と『機動戦士ガンダム』のロボット戦争の世界観に大きく影響を受けているということを、過去の記事で考察した。

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 時は流れ、セカンドインパクトの年が未来ではなく過去のものとなった2007年。新しいエヴァシリーズの第1作が公開された。その『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』は、基本的には1995年版の第壱話〜第六話を踏襲しているものの、細かい部分は異なっている。

 例えば、前島賢はその著書『セカイ系とは何か』の中で、新シリーズを次のように分析している。

「ただ一方で、『新劇場版』には、本来の意味でのセカイ系、つまり「エヴァっぽさ」や「自意識」から逃れようとする意図が感じられるのも事実である。

 たとえば原作『エヴァ』では碇シンジの父、碇ゲンドウ、あるいは同居人の桂木美里など、主人公にごく近しい人間以外の大人たちが描かれなかった。謎の敵、使徒と戦うために作られた街でありながら、そこでどのような人が暮らしているのか、あるいはエヴァを運用するNERVとはどんな組織であったかは、ほとんどわからないままだった。

 一方、『新劇場版』では使徒を倒すための作戦を立てる者たちや、あるいは、必要な兵器、機材の設置に励む人々、そしてまた庵野秀明の独特な美意識によって描かれる高層ビル街を行き来する人々など、きわめて多くの群衆、群像、風景が描かれ、観客に第3新東京市という街の生活≒社会を感じさせるものとなっている。」

(前島賢『セカイ系とは何か』SBクリエイティブ、2010年、224-225頁)

 確かに『序』ではヤシマ作戦立案の会議に多くのネルフ職員が集まり、作戦時に初号機へ電力を集める作業をしている人々が描かれている。また、シンジが家出をした先は、クラスメイトのケンスケが1人サバゲーをしている原っぱではなく、ネオンが煌びやかな夜の街である。そこには人々の生活の臭いがあり、無機質とは遠い空間だった。

 その意味において、『序』は主人公とヒロインの小さな関係と世界の終わりの間に、社会という中間項が挟まれていると言えよう。

 しかしながら、主人公とヒロインの小さな関係は『新劇場版』でより焦点を当てて描かれているようにも見える。

⑵ 焦点化されるエディプス・コンプレックスと小さな関係

 旧劇場版でも新劇場版でも、碇シンジと碇ゲンドウが3年ぶりに対面するシーンは同じである。すなわち最初の使徒撃退戦で、シンジがエヴァ初号機に乗ることを決意するシーンである。この時、シンジはエヴァの前にいるが、ゲンドウはそこを見下ろす場所に立っており、ガラス越しにシンジと対話している。つまり、シンジとゲンドウの関係には壁があり、映像通り上下関係がある。

 私の以前の記事でも述べたが、この2人はエディプス・コンプレックスの関係にあり、シンジは父親のゲンドウに愛情を抱いている一方で憎しみも抱いている。アンビバレントな感情を持っている。旧劇場版では両者にまたがる愛憎の壁・心の壁を克服できずに終わったため(シンジが喪失やエディプス・コンプレックスを克服できなかったため)、物語的には不完全燃焼な結末となった。

 そして、この親子関係には綾波レイ(=碇ユイの生まれ変わりのようなもの)が重要である。旧劇場版のラストで、「碇くんが呼んでいる」と綾波はゲンドウの元を去る。すなわち、旧劇場版ではシンジがゲンドウに勝利をする(母親の愛情を勝ち取る)という形でエディプス・コンプレックスに一応の決着はついた。

 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』ではこのエディプス・コンプレックスは異なる方向へ進んでいるのかもしれない。シンジはエヴァに乗り続ける動機を見つけられないでいたが、「父親がネルフにいるから」という理由で乗るのだと分かる(ミサトはそれを「父親に褒められたい」からだと推察している)。旧劇場版でも最初は「父さんに褒められるためにエヴァに乗っていた」ので、エディプス・コンプレックスが和解の方向で変化していくのかまだ判断はできないが。。。

 さて、エディプス・コンプレックスについて触れ遠回りしてしまったが、主人公とヒロインの小さな関係の焦点化に話を戻そう。『序』の中でゲンドウは「シンジとレイを近づける」という発言をしている。これは旧劇場版には無かった発言だ。シンジとレイが近づくということは主人公とヒロインの小さな関係が出来上がるということである。セカイ系の主人公とヒロインは、新海誠監督の『天気の子』のように、しばしば世界を救うか愛しい人を救うかの二択を迫られるのだから、主人公とヒロインは世界と天秤にかけられるほどの関係を築きあげなければならない。そして、『序』は主人公・碇シンジとヒロイン・綾波レイが、ヤシマ作戦を通して小さな関係を築いたところで終わる。

⑶ まとめ

 このように新劇場版は、主人公とヒロインの小さな関係と世界の終わりの間に「社会」という中間項を差し込むことでセカイ系からの脱却を図っている。

 だが、主人公とヒロインの小さな関係自体は旧劇場版よりも焦点が当てられ、エディプス・コンプレックスも同様に焦点が当てられている。旧劇場版は父親から母親(=ヒロイン)を勝ち取ったものの、ヒロイン(=母親)を失い、世界が一応保たれる結末となった。新劇場版はどのような結末を迎えるのか?親子のわだかまりは和解の方向へ進んでいるように見え、ヒロインとの関係はより強固なものになっていくように見える。

 そして、新劇場版2作目以降の考察も記事が書き終わり次第、この下にリンクを貼っていきます。興味を抱いてくれた方は是非そちらも!

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参考文献

・前島賢『セカイ系とは何か』SBクリエイティブ、2010年

・ ジグムント・フロイト「喪とメランコリー」『人はなぜ戦争をするのか』中山元訳、光文社、2008年

・ジグムント・フロイト「ドストエフスキーと父親殺し」『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』中山元訳、光文社、2011年