今週のお題「おうち時間2021」。僕はおうち時間に映画を観ることが多く、最近は2021年に日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞した『Fukushima 50』を観た。この映画は、福島第一原発の事故に対応した東京電力の社員たちの命を賭けた奮闘と、震災や事故に巻き込まれた人々の受難を描いている。この映画は確かに一件に値するが、監督賞を受賞するほどなのだろうか?と個人的に疑問を感じる。その疑問の理由をここで述べていきたい。
⑴ 『シン・ゴジラ』のパターン
2011年の東日本大震災以降、日本の国難に日本人が団結して立ち向かう物語が目立つようになった。その中で最も大衆的人気を獲得したのは庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』(2016)だろう。
1954年に公開されたゴジラ映画第1作は、水爆実験によってゴジラが目覚めたという設定であり、ゴジラは水爆の恐怖を具象化した存在であった。それは原爆により広島と長崎の街が吹き飛んでから9年後、ビキニ環礁で水爆実験が行われてから8年後のことだった。
『シン・ゴジラ』の公開は東日本大震災から5年後のことで、多くの出来事や展開が震災と重なる。ゴジラという災害が人間社会を蹂躙していく様、ゴジラがまるで原発のように活動停止に追い込まれるラストなどがそうである。つまり、人間の災害への勝利という結末になっている。
ゴジラという災害への勝利の鍵は、人間同士の連帯・団結であった。そして、それを描くためには、映画の冒頭は人間の団結がチグハグな必要がある。『シン・ゴジラ』は初め、ゴジラの対応を巡って、主人公・矢口蘭堂(長谷川博己)ら官僚と内閣の団結がチグハグだった。その為、ゴジラを迎撃するチャンスを何度も棒に振り、この生命体の成長を許してしまった。
日本人が失敗を重ねるにつれ、内閣は矢口をゴジラ対策のリーダーに据える。また内閣だけでなくアメリカの外交官や自衛隊、科学者たちが矢口に手を貸し、ついには鉄道業界や建設業界も矢口に手を貸し、何とかゴジラの活動を停止させる。
この映画において主人公・矢口蘭堂は決定権を持ち、内閣と現場の間にいる。つまり、「内閣ー矢口ら司令塔ー自衛隊などの現場」という図式が出来上がっているのだ。矢口は総理大臣など内閣の政治家との対立を乗り越え、現場に指示を与える役目を持っている。
そして、『シン・ゴジラ』において一般市民はあまり焦点化されない。ましてや、矢口蘭堂という官僚のプライベートな問題は全く描かれない。あくまで矢口はプロフェッショナルとして描かれており、矢口の人間的掘り下げは行われない。物語はゴジラにより被害者たちの心情を描くのではなく、ゴジラをどうやって倒すかという点に焦点が置かれている。
⑵ 『空母いぶき』のパターン
『空母いぶき』が描いたもの
東日本大震災から8年後、若松節朗監督の『空母いぶき』が公開された。この映画もまたシン・ゴジラ系の群像劇であり、戦争開戦による日本の破滅をギリギリ食い止める映画である。
主人公は空母いぶきの艦長である秋津竜太(西島秀俊)。物語は彼が指揮する「いぶき」を舞台に繰り広げられる。また、この映画における秋津のポジションは『シン・ゴジラ』における矢口蘭堂にあたり、現場の指揮官である。つまり、秋津は日本政府による要求と格闘しつつ、現場に指示を与えなければならないのだ。ここにも、「日本政府ー秋津ー海上自衛隊」という図式が存在している。
『シン・ゴジラ』において、矢口蘭堂は内閣にゴジラの脅威を信じさせる必要があった。これは日本人が一致団結したというこの映画の感動を生み出すために必要な前提で、矢口らと内閣が団結していない状況が前半で描かれた(バラバラな状態から団結することが大事なのだ)。
一方、『空母いぶき』において秋津が団結させるべきは自らが率いる海上自衛隊であった。特に副艦長である新波歳也(佐々木蔵之介)は海上自衛隊の攻撃には慎重派で、先制攻撃には積極的な秋津とは正反対の価値観を持っている。だが、秋津と新波の対立は最終的に解決し、秋津は海上自衛隊をまとめることに成功する。
このように『空母いぶき』は『シン・ゴジラ』に似た物語構造を持っていたのだが、ヒットには恵まれなかった。それは何故なのか?それは『空母いぶき』にはあって『シン・ゴジラ』にはないものを分析すれば見えてくる。
『空母いぶき』が描いてしまったもの
『空母いぶき』の物語を一言で表すと、「日本人が団結して国難に対処する」ということになる。これは『シン・ゴジラ』と同じである。しかし、この団結というテーマを軸に『空母いぶき』を分析すると、そのテーマが上手く機能していないことが分かる。
秋津は海上自衛隊を団結させることに成功した。しかし、この映画の主要キャストたちの中で秋津の指導の外にいた人物たちがいる。1つは空母いぶきの取材のために乗艦した記者・本多裕子(本田翼)であり、もう1つはコンビニで働く中野啓一(中井貴一)と森山しおり(深川麻衣)である。
本多は海上自衛隊というプロフェッショナルが集う空母の中で、一般人の視点を担当している。いわゆるコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズにおけるワトソン役である。彼女は記者として秋津とは異なる立場におり、プロフェッショナルとして国難に対応しているわけではない(その点で『シン・ゴジラ』には存在しない登場人物である)。
コンビニで働く2名はさらに団結というテーマとは程遠い。彼らは秋津らプロフェッショナルが守るべき日本国民の具体的な例であり、その国難すら知らずにいる。
「日本人が団結して国難に対処する」という物語において、この2つの登場人物グループは余計な存在に過ぎない。つまり、この映画は『シン・ゴジラ』ほどテーマをしっかり描けておらず、プロフェッショナルな人々に焦点を当て続けていないのだ。その為、記者やコンビニ店員のシーンになるたびに映画の緊張感が緩んでしまう。そして実際、この2つの物語グループは登場しなくてもストーリー的には全く問題ない。
では、この映画と同じ若松節朗が監督した『Fukushima 50』はどうだろうか?
⑶ 『Fukushima 50』のパターン
『Fukusima 50』が描いたもの
東日本大震災から9年後に公開された『Fukushima 50』は、福島第一原発事故発生時に日本壊滅の被害から救った人々を描いた映画である。彼らがいなければ放射能が日本を覆い尽くし、この国はかつてないほどの国難に見舞われていたに違いない。そう、この映画も日本人が団結して国難を克服する話なのである。
『シン・ゴジラ』は東日本大震災を比喩する形で国難とそれに立ち向かう人々を描いたが、『Fukushima 50』は東日本大震災を直接描く形で国難とそれに立ち向かう人々を描いている。そして、監督は『空母いぶき』の若松節朗である。若松は『空母いぶき』の演出からどのように『Fukushima 50』を変えてきたのか?
『Fukushima 50』の主人公は福島第一原発1・2号機当直長の伊崎利夫(佐藤浩市)である。彼は『シン・ゴジラ』で言うならば現場のリーダーであり、矢口や秋津とは異なる立場にある。矢口や秋津の立場にいるのは福島第一原発所長の吉田昌郎(渡辺謙)であり、伊崎の旧友でもある。吉田は所長として日本政府や電力会社の上層部ともやり取りをしており、こちらの関係は悪い。つまり、人間関係の軸で言えば、「日本政府・電力会社上層部ー吉田所長ー伊崎ら現場」という図式がある。
吉田には上層部との対立を乗り越えるという課題が与えられているが、伊崎には人物関係の葛藤は与えられていない。いや、正確には与えられているのだが、それは職務の外においてである。すなわち、伊崎の1人娘・伊崎遥香(吉岡里帆)との関係である。娘の恋人を巡る問題で2人は対立していたが、伊崎が命を賭けた仕事をしていく中で、娘がその父の身を案じる中で、2人の対立は解決する。
『Fukusima 50』が描いてしまったもの
私はこの映画を観ていて、主人公は吉田だと思った。吉田こそが上層部と現場の板挟みになり、難しい選択を強いられていくからだ。その姿は『シン・ゴジラ』の矢口や『空母いぶき』の秋津に重なる。そして、彼らのプライベートが掘り下げられることがないように、吉田のプライベートもまた掘り下げられない。彼ら3名は終始プロフェッショナルとして描かれるのである。
一方、伊崎は自らの上司である吉田との関係に対立は薄い。何せ彼らは旧友でありすでに団結しているから。その為、制作者側は伊崎のプライベートを掘り下げることで、彼の葛藤を描いた。
だが、それはこの映画に『空母いぶき』でいうコンビニ店員を描くということを意味する。伊崎の娘はプロフェッショナルな存在ではなく、伊崎や吉田が守るべき一般市民の代表という役割が強い。緊迫する原発の対応の中でこのような部外者のシーンが描かれるのは、緊張感が映画から損なわれるということに繋がる。何故なら、部外者はプロフェッショナルたちの「団結」の外にいるから。
つまり、この映画は主人公の設定と焦点を当てるポイントに失敗していると言えないだろうか?原発事故の対応の主役は吉田であり、プロフェッショナル同士の団結を描くことに焦点を当てるべきなのに、伊崎のプライベートが掘り下げられてしまっている。
⑷ 3作品の比較まとめ
最後に『シン・ゴジラ』『空母いぶき』『Fukushima 50』の比較をまとめる。個人的な評価順序は『シン・ゴジラ』>『Fukushima 50』>『空母いぶき』である。理由はプロフェッショナルな日本人の団結が描けているか?不要な要素がどれだけ多いか?である。
・『シン・ゴジラ』:主人公は巨災対の責任者・矢口蘭堂。彼は司令官として日本政府と現場の板挟みになりつつも、国難を救う救世主としてプロフェッショナルな人々を統率する。映画は登場人物たちのプロフェッショナルな面のみを描き、プライベートの描写は省かれている。その為、映画の緊張感を終始維持することに成功している。
・『Fukusima 50』:主人公は福島第一原発1・2号機の当直長・伊崎利夫。しかし、彼は原発事故に対応する司令官ではなく、その役割は所長の吉田昌郎に奪われている。その為、伊崎は上司と部下の板挟みになるという葛藤の描かれ方が希薄になり、その葛藤を抱える吉田が主人公のようにも見える。吉田こそがプロフェッショナルな人々を統率する立場の人間である。その立場になく、仕事上の葛藤が少ない伊崎はプライベート面の葛藤を描かれざるを得ない。このプライベートの描写が映画の緊張感を時折緩ませてしまっている。そして、伊崎のプライベート面で登場する人物たちは団結の外にいる。
・『空母いぶき』:主人公は空母いぶきの艦長・秋津竜太。彼の判断の1つ1つが日本の破滅か日本の救世に繋がるという立場にある。彼は部下との葛藤を抱えつつもプロフェッショナルな軍人たちを率いるリーダーである。映画は秋津らのプロフェッショナルな面に焦点を当てているが、彼らとは関係が希薄な記者やコンビニ店員のシーンが時折描かれる。この非プロフェッショナルな登場人物たちが映画の緊張感を無くしてしまっている。勿論彼女らは団結の外に存在している。
今後、このような国難に対処する人々を描いた群像劇は定期的に描かれるのだと思う。それらの映画がどの立場の人間を主役にし、プロフェッショナルの描写に終始するのか、プライベートも掘り下げるのか、非常に興味深い。
ーーーーー
<参考文献>
・橋本陽介『物語論 基礎と応用』講談社、2017年。
この本は『シン・ゴジラ』を物語論の観点から「なぜ面白いのか?」を分析している項がある。