26歳になった神奈川県在住の男性の人生記録「2度目の就活編」。第7回は秋田県の地方紙である秋田魁新報社と東北地方のブロック紙である河北新報社の体験談。個人的にこの会社の採用選考が一番辛かった。※人生の記録は週刊になります。毎週日曜日の19:30に投稿します。
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⑴ 河北新報社の作文と筆記試験
河北新報社のESと作文
河北新報社のESは手書き必須だった。4年前と比べて、web上でのES提出が増えた就活状況の中で、PC入力を禁止し手書きを強制させる企業は、古い体質の会社の可能性が高い。企業側からすれば文字からその人がどのような人なのかを確認したかったり、手書きにすることでその人の入社意欲を推しはかったりするのであろうが、応募者(=1年後の現場社員)からすれば負担にしかならない。何百文字何千文字と書いていく中で、たった1つ誤字脱字を犯すだけで書き直しになるからである。
なので、僕は最大限の注意を払いながらESの下書きを行い、黒のマジックで清書をした。これはかなりストレスが溜まる。
また、河北新報社のESには作文課題が付随していたのでその作文も手書きで書いた。課題は「私と新聞」(400文字)だった。以下に僕が提出した作文を掲載する。
以前の仕事で自動車メーカーの社史映像を制作する機会があった。私はそのプロジェクトを管理する立場にあり、メーカーの歴史をリサーチする担当でもあった。
私は石油危機によって売上が激減した自動車業界の資料を探していた。だが、約四十年前の資料を探すのは困難を極めた。メーカーには過去のデータが殆ど残っていなかった。また、懇意にしていた自動車系の出版社には、当時の記事は残っているものの、その内容は社会的側面から切り込んだものではなく、自動車そのものの特集が中心だった。
しかし、新聞記事は異なっていた。当時の新聞記事は石油危機やそれに伴う自動車業界の売上激減が報じられていた。それは四十年越しに届いた情報だった。
私が普段作っている広告映像は四十年後の人々に見られることはないだろう。私が新聞記者に憧れ、未来の人々にも届く情報を伝えたいと思った瞬間だった。
一応これで書類選考は通り、GW手前に筆記試験が行われるという連絡を受けた。
河北新報社の筆記試験
GW前。東京と仙台で筆記試験が行われた。内容は時事問題・作文・性格検査の3種類だった。性格検査は自分に一番近い性格や行動を選択しマークシートに記入するよくあるものだった。時事問題は東北(特に宮城県)に関する問題や英語の読解問題も出題された。英語は東日本大震災の被災者の体験談の英訳だった。
作文は「新」というお題(だった気がする)をテーマに書いた。試験会場で書いたので僕が書いた作文をここに載せることはできないが、確か新しいことを知る喜びのようなことを書いた記憶がある。作文のクオリティには自信がなかったが、とりあえず筆記試験も通過した。
1次面接はGW明けだった。会場は東京か仙台を選択できたので(交通費を出してくれる)、僕は迷わず仙台を選んだ。面接の前後で宮城県旅行をしたかったからだ(新幹線代を出してくれるわけだし)。
GW中は宮城旅行の計画を立てながら、河北新報社の面接の前にある秋田魁新報社の面接、上毛新聞社の筆記試験など県紙受験の準備などをしていた(リフレッシュを兼ねて神奈川県の大山や静岡県の天竜浜名湖鉄道に行ったりしたが)。
⑵ 大失敗した秋田魁新報社の面接
GWが明け、秋田魁新報社の面接があった。ここは書類選考の次に1次面接があった。面接官はベテランの記者たちだった。5人くらいいたと思う。面接官全員が硬派な雰囲気を醸し出しており、僕は警察の採用試験を受けにきたのかと錯覚した。
面接の雰囲気は穏やかではあったが、並々ならぬ緊張感もあった。面接官は開口一番、「自己PRをお願いします」と言った。僕は「2018年に早稲田大学を卒業した川井書生です。大学では〜」と用意していた自己紹介を始めたが、話している間に自己紹介ではなく自己PRと言われていることに気付く。
今までの面接では、初めに自己紹介か志望動機、あるいはその両方を話すパターンだった。いずれにしても、最初に話す内容は自己紹介か志望動機なのである。だが、最初に自己PRを話すパターンは初めてだった。
僕は途中まで自己紹介をしてしまった段階でその違いに気付き、話している内容を自己PRに変えていった。しかし、アドリブで話す内容を変えているので完全に不意打ちを食らった状態。頭の中はパニックになりペースが乱された。僕の自己PRはしどろもどろになった。
その後志望理由を問われ、僕は再生エネルギーに興味があることを話し、秋田県では洋上風力発電が盛んなことと結び付けてアピールした。しかし、面接官から「それ以外で秋田に興味あることは?」と聞かれ、再びしどろもどろな回答に。しまいには自分で何を言っているのか分からなくなってしまった。
面接中に落ちることが分かった稀有な事例となった。また、僕は昭和な雰囲気がある新聞業界とは合わないと感じ始めていた(前の会社を辞めた理由の1つに昭和な社風があったから)。
⑶ トドメを刺された河北新報社の面接
秋田魁新報社と同じ東北地方の新聞社・河北新報社の面接は仙台で行われる予定だった。しかし、GW直前に発令された緊急事態宣言の影響でweb面接に変更された。そのため、僕の宮城県旅行もおじゃんとなった(宮城県旅行がおじゃんとなったのはこれで2回目。2020年末にも計画していたのだがこの時も緊急事態宣言で中止になった)。
面接当日。zoomの向こうには何人もの面接官がいた。少なくとも5人以上いただろう。とても緊張感のある面接で質問も厳しい。圧迫面接と呼ばれる雰囲気だった。自己紹介や志望動機の確認はなく、最初の質問は「宮城に行ったことはありますか?」という質問から始まった。
一番厳しい質問は「亡くなった子供の写真が必要な際、両親になんて声をかけて写真をもらいますか?」というものだった。僕が「〇〇と言って写真を頼みます」と答えると、面接官に「いや、無理でしょう」と強い口調で否定された。
僕はその時困ってしまった。質問されたから答えたのにその答えを否定するなんて。僕の話を聞く態度というよりは、ある答えを求めている態度であり、こちらを試しているという態度を感じた。
面接官がある答えを求めている以上、僕はその面接官に「では、例えばどのようなやり方がいいのですか?」と質問した。そうしたら、その面接官は「質問しているのはこちらです」と再び強い口調で言った。こちらはその質問にすでに答えているのだが。。。
まあ、この面接は僕のことを知る質問集というよりは問題を出されている感じだった。そして、応募者の回答が面接官の意にそぐわないと否定される。否定しないで、黙って頷いておいて後で落とせばいいのに、と思った。
この面接は15分程度しかなかったが、かなり疲れてしまった。僕はこの面接で自分は新聞業界には向かないと強く思った。向かないというのは、昭和気質の業界なところである。今の時代、わざわざ強い態度で怒るというのは平成令和世代にそぐわない。「これは良くない」と教えてあげれば大抵の若手社員はそれを改善するはずだ。
上述の通り、新聞業界は向いていないと良く分かったので、僕はその後にあった上尾新聞社の面接、北海道新聞社の面接、福島民友新聞社の面接などを辞退した。マスコミ業界のなかで、新聞・出版・テレビの分野を受けていたが、残りは出版とテレビとなった。
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ESや面接において参考にした書籍
2011年3月11日に発生した東日本大震災。その被災者となりながらも報道機関としての使命を全うした河北新報社のドキュメント。執筆しているのは同社の記者たちで、当時の被災状況などが詳細に分かる。また、記者という仕事についてもよく分かる1冊。