川井書生の見聞録

映画評論、旅行記、週刊「人生の記録」を中心に書いています。

体制とアウトローの狭間で 『ノマドランド』感想・考察

 雨の日は(晴れの日もだけど)本を読んだり映画を観ること多い。先日の大雨の日は2021年のアカデミー作品賞を受賞した『ノマドランド』を観に行った。梅雨とは無縁そうな、荒涼としたアメリカの大自然を舞台に漂うノマドたちは、現代の開拓者なのか?

ノマドランド映画チラシ 2021年03月公開 『ノマドランド NOMADOLAND』

⑴ 昔の開拓者

 物語終盤で、主人公ファーン(フランシス・マクドーマンド)の妹が、ハウスレスで働く人々を「昔の開拓者みたい」と言うシーンがある。ここでいう昔の開拓者は西部劇の開拓者である。また、アメリカ文学者の宮脇俊文は『キネマ旬報 1862号』の中で次のように述べている。

 昨日より明日を信じ、路上に夢を追い求める生き方は、フロンティアの時代、常に西を目指して移動を続けたアメリカ人の伝統だ。どこにでも移動できるのがアメリカ人の特権であり、そうすることでアイデンティティーを確立していった。その伝統を今も継承している現代のノマドたちは、我々に「ホーム」とは何かを問い直す機会を与えてくれる。それは1カ所に定住しない彼らにとっては、普通の家のことを指すのではない。それは心の中にあるものなのだ。形にはできない何か大切なもの、生きる糧といったものであるに違いない。彼らはそこに永遠性を求めているようだ。詩の中の人物が永遠に生き続けるように、彼らも永遠の命を求めて移動し続ける。円に終わりがないように、彼らにも終わりはない。過去の苦しみや悲しみから、永遠の未来へと移動するのだ。

(宮脇俊文「ロードの先でまた会おう」『キネマ旬報 1862号』キネマ旬報、2021年、13頁。)

 このように制作者や研究者はファーンらハウスレスの季節労働者に西部劇の開拓者の姿を重ねている。そしてまた、彼らはノマドたちの旅は円環になっており終わりがないと分析している。

 しかしながら、私はファーンらノマドと西部劇の開拓者は異なる存在であると思う。むしろ、『ノマドランド』は『イージーライダー』などの映画に近いように思えてはならないのだ。

⑵ アウトローと体制

 そもそも、西部劇の中にもいくつかジャンルがあり、保安官とアウトロー、あるいは白人とネイティブアメリカンを描くような西部劇がある。それらの西部劇は1つの場所を舞台とし、その場所を守るために彼らは悪と戦うのだ。この対決の西部劇はジョン・フォードやハワード・ホークスといった20世紀前半の映画監督たちによく見られる。

 20世紀半ばになると、体制=保安官(正義)VSアウトロー(悪)という西部劇の図式に変化が訪れる。その1つがフレッド・ジンネマン監督の『真昼の決闘』(1952)である。これは主人公=保安官VS敵=アウトローという以前の西部劇とは変わらない人物設定だが、最後に主人公が保安官の徽章を捨てる。つまり、かつての西部劇にあった体制側=保安官という図式が崩壊しているのだ。

 20世紀後半になると、この図式が完全に逆転する。ハリウッドの大スターであるケヴィン・コスナーが監督を兼任した『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990)は、主人公=保安官という状況から始まるのだが、最終的にこの保安官はネイティブアメリカンと共に白人で構成される軍隊と戦うことを選択するのだ。また、マイケル・マン監督の『ラスト・オブ・モヒカン』(1992)は、主人公にネイティブアメリカンを選び、白人を敵として描いている。

 つまり、西部劇映画というのは体制を疑わない主人公→体制を疑う主人公→体制と対立する主人公というように、制作者の立場が変遷してきたのだ。

⑶ 西部劇とアメリカンニューシネマ

 他のジャンルとしてはロードムービーとしての西部劇を挙げることができる。これはアメリカ合衆国の「マニフェスト・デスティニー」を題材にしており、実際の人々が仕事を求めてアメリカ東海岸から西海岸へ移動していく様を描いた物語が多い。

 そのため、西部劇のロードムービーというのは直線的な行程になる。大陸横断鉄道が出発駅から終着駅まで1直線で進むように、西部劇のロードムービーも出発点から終点まで1本の線として進む。では、この西部劇のロードムービーはその後どのように展開していったのか?

 古典的ハリウッド映画の製作スタイルが崩壊していくのとともに、西部劇映画の制作本数も減少していった。その代わりに『真夜中のカーボーイ』(1969)など現代を舞台にし、かつ西部劇の影響を受けている映画が制作されるようになった。また、『ワイルドバンチ』(1969)『明日に向かって撃て!』(1969)などアウトローを主役にした西部劇映画が目立つようになった。これらの映画はアメリカン・ニューシネマと呼ばれ、その特徴の1つに若者たちの体制への敗北という結末がある(多くのアメリカンニューシネマ作品の結末において、主人公=アウトロー=若者は体制側=大人に殺される)。それはヴェトナム戦争に若者を派遣する合衆国政府への不信感の表れであり、体制への疑問を提示した『真昼の決闘』と主人公を反体制側に置いた『ダンス・ウィズ・ウルブズ』などの西部劇との過渡期にある映画群である。

 このように体制への反抗とアメリカン・ニューシネマの代表作に『イージーライダー』(1969)がある。これは馬ではなくバイクでアメリカを旅するロードムービーであり、他のアメリカンニューシネマの例に漏れず、最後に主人公=アウトロー=若者が大人に銃撃され死に至る。

 『イージーライダー』の例のように、西部劇の人気が衰退していくと、かつて西部劇で語られていた物語が現代劇として変わっていった。西へ西へと歩みを進めていく西部劇のロードムービーはバイクや車で移動するロードムービーへ代わり、保安官が悪人を倒すという西部劇のヒーロー物語は『ダーティハリー』(1971)のように、刑事が悪人を倒すという現代劇に置き換わった。そして、それらの映画の主人公は体制側に疑問を呈していたり、体制側に反抗していたりするのだ。

 そして、これらの映画を青春時代に見ていた人々、ヴェトナム戦争を青春時代に体験した人々が、『ノマドランド』に登場する老人たちの世代になるのだ。

⑷ 狂言回しのファーン

 『イージーライダー』が西部劇のロードムービーを当時の現代(1969年)に置き換えたものならば、それから51年後の『ノマドランド』もまた西部劇のロードムービーを現在の現代(2020年)に翻案した映画である。主人公のファーンは馬でも2輪車でもなく4輪車で生活する場所ごと移動する。

 1969年に皆で輪になって話していた若者たちは、その51年後に老人となって焚き火を囲んで話し合っている。1969年の彼らは当てもなく一直線に進み、その先には体制への敗北があったが、2020年の彼らは体制との折り合いをつけながら(アマゾンの倉庫や国立公園で季節労働をしながら)、円環の道を1年かけて周回する。彼らが円環から外れる時は、アラスカに行った女性のように死が訪れた時か、息子の家に戻った男性のように体制側に戻る時である。

 このような切り口で『ノマドランド』を見ると、主人公ファーンはアウトローと体制側の間にいるように思える。間にいるからこそ、アウトローと戦うこともなく、体制に反抗することもない。そして家に戻ることも男性の好意に応えることもない。つまり体制側に戻ることは選ばない。ハウスレスになりたてのファーンは、独自の視点に立ってアウトローと体制側の人間に触れていく。

 それゆえ、この映画におけるファーンには「狂言回し」、つまり「聞き役」の役割が与えられている。

 『イージーライダー』の主人公たちは旅の中継地点で人々に出会い、自発的にそこにいる人々の元から去っていく。言い方を変えれば、見送られる側である。それは彼らが狂言回しではないからだ。

 しかし、『ノマドランド』の主人公は円環の旅の中継地点で人々に出会うのだが、そこから先に去っていくのは、毎回中継地点にファーンより先にいた人々である。つまり、ファーンはいつも見送る側になるのである。彼女が他の人の車を見送るシーンが、彼女の狂言回しの役割を象徴するシーンである。

⑸ まとめ

 さて、最後にこの映画についてまとめよう。『ノマドランド』のセリフの中で「昔の開拓者みたい」というセリフがあるが、ファーンは果たして現代の開拓者なのか?答えは半分イエスで半分ノーのように思える。昔の開拓者とは西へ西へと移動した人々であるとともに、ネイティブアメリカンを虐殺し、アウトローたちを葬ってきた人々でもあるからだ。

 なるほど、前者の移動する人々という意味ではファーンも「昔の開拓者」の末裔かもしれない。それにファーンが見送った死が迫っていた女性は、最後にアメリカ西海岸よりも西にあるアラスカを目指すのだから。西の果てにあるアラスカは「昔の開拓者みたい」な人間の終焉の地に相応しい。

 しかし、後者の体制側の人々という意味では彼女は相応しくない。体制側にいる妹(「昔の開拓者」発言の主)の一緒に家に住む誘いも断り、息子の家に住むことに決めた男性の好意もあしらうからだ。

 それにしても『ノマドランド』が西部劇映画の歴史を意識しているのは確かだろう。

ーーーーー

<参考文献>

・『キネマ旬報 1862号』キネマ旬報、2021年。

・加藤幹郎『映画ジャンル論』文遊社、2016年。

・吉田広明『西部劇論』作品社、2018年。