川井書生の見聞録

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煉獄杏寿郎の役割 映画『鬼滅の刃ー無限列車編ー』(書生の映画日記1)

 あの大大人気の映画の感想を書こうと思う。その大大人気の映画とはもちろん『鬼滅の刃ー無限列車編ー』。これは大学生の時に映画を専攻し、大学4年間で2000本近く映画を見た僕の感想と考察である。

(※もし本記事を引用・参照される場合は参考文献または注釈として記載をお願い致します。)


鬼滅の刃無限列車編 公開PV

⑴ 煉獄杏寿郎の回想

この映画では鬼の回想ではなく、人間の回想が行われる

 『鬼滅の刃』は過去の名作がミックスされた作品とよく言われる。確かに鬼殺隊の設定やデザインは『BREACH』の護廷十三隊の影響を受け取れる。柱という設定は隊長を連想させるし、和服に羽織を着ているファッションも似ている。十二鬼月という設定もまた『BREACH』の十刃(エスパーダ)を連想させ、さらに遡れば『るろうに剣心』の十本刀にその源を確認できよう。鬼が太陽に弱いという吸血鬼のような設定は『ジョジョの奇妙な冒険』からの影響を強く感じられる。

 もう1つ例を挙げよう。『鬼滅の刃』では登場人物の死の間際に、その人物の回想が入ることがよくある。テレビアニメで登場した響凱という元十二鬼月の鬼は、自分が認められなかった過去を戦闘中に回想する。そして、響凱は主人公・竈門炭治郎との戦いの中で、自分の血鬼術がすごかったと認められ、救われながら死んでゆく。また、十二鬼月・下弦の伍である累は、死に際に自分が人間である時に感じていた不幸を回想する。

 この死に際の回想もまた、作者が敬愛する『BREACH』でよく使用されていた方法であった。十刃のメンバーたちが主人公側の護廷十三隊の面々に倒される時、または戦闘中に過去を回想するのだ。なので、今回の『鬼滅の刃ー無限列車編ー』でも当然、十二鬼月・下弦の壱である厭夢の回想も行われるものだと思っていた。だが、今回鬼側の回想は行われない代わりに、鬼殺隊側の煉獄杏寿郎の回想が行われたのだ。

 つまり、劇中で煉獄の回想が行われた時、勘のいい観客は煉獄の死に気付き、この映画の悲しい結末に直面する準備をし始めるのだ(悲劇というのは、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』などに代表されるように、登場人物の死を前もって明示・暗示するものだ)。

三兄弟は夢を見るが、煉獄は過去を思い出す

 煉獄の回想のメインは、彼の死に際ではなく、鬼の能力によって眠らされている時に描かれる。その時鬼は幸せな夢を鬼殺隊士に見せている。故に、炭治郎は家族が生きており妹も鬼になっていない頃の夢を、我妻善逸は思いを寄せる炭治郎の妹と一緒にいる夢を、嘴平伊之助は己が隊長となって仲間たちと冒険をしている夢を見るのだ。彼らの夢はフロイトの言う願望充足に過ぎない(つまり現実では叶えられていない願いを、夢の中で実現しているのである)。

 しかし、煉獄の見ている夢は彼らのそれとは異なっていた。彼が夢見ていたのは、すでに父とのわだかまりがある頃の夢で、決して幸せな夢ではなく、願望充足の夢とは言えない。煉獄の夢は、眠る前に炭治郎に日の呼吸に関して質問された内容に関連したものとなっている。そして、煉獄はこの夢を見ることによって、炭治郎の質問への答えを得るのである。換言すれば、答えられなかった質問に答えられると「気付く」のである。

 鬼の回想と死は、響凱のような人間時代の不幸が死に際に救われるという関係と、累のような本当に欲しかったものや人間時代の真実に死に際になって「気付く」という関係との2パターンに大別される(今後アニメに登場するであろう上弦の陸は救われ、上弦の参と上弦の壱は気付く)。まさに煉獄の夢もまた「気付く」タイプの回想と言えよう。

煉獄の「気付き」は受け継がれる

 鬼と煉獄の回想の違いは、回想そのものよりもその周辺に現れる。基本的に鬼の回想は、響凱にしても累にしてもその鬼の中で完結する。だが、煉獄の回想は遺言となって炭治郎に託され、劇中直後、炭治郎が煉獄の父の元へ訪れるのである。初めは煉獄の回想の中の父親に違わない、生気を失った人物として描かれるが、炭治郎との出会いによって次第に生気を取り戻していく。ここに鬼の回想と煉獄の回想の異なる点が確認できる。

 鬼というのはその始祖である鬼舞辻無惨を始め、数百年、千年という悠久を生き、鬼殺隊に首を切られない限りは不死である。一方で人間は容易く消えていく。この対立は『ジョジョの奇妙な冒険』でも描かれており、吸血鬼であるDIOは長い時を過ごし、人間は世代が入れ替わっていく。つまりジョジョも鬼滅も、個としての吸血鬼と集合体としての人間とを対立させることによって「人間賛歌」を描いているのである。

 この集合体としての人間という描写は、作者の夢の考え方にもよく表れている。鬼が見せる夢は同心円状になっている(横に広がっている)と作中で解説されるが、今まで夢は浅さと深さ(下に広がっている)形で描かれてきた。例えば、今敏監督の『パプリカ』で主人公が夢の中へ入っていく際は、下へと潜っていく動きで表現されている。また、今回の映画においても善逸と伊之助は夢が深くなるにつれ、水の中を下へ落ちていく描写がされている(このシーンは原作にはなく、意識と無意識の描かれ方は原作とアニメで擦り合わせができていなかったのかもしれない)。夢を浅さと深さで考えたのはフロイトの精神分析だが、夢を同心円状だと考えたのはユングの精神分析である。そして、フロイトは夢を願望充足と定義し、ユングはそれを集団的無意識と定義した。

 この集団的無意識とは、個人を超えた、集団や民族、人類の心に普遍的に存在すると考えらている元型である。それを『鬼滅の刃』の中に落とし込むと、鬼殺隊の心に普遍的に存在する元型ということになる。それは受け継ぐことによって普遍的に存在している鬼殺隊の思いと呼吸に他ならない。

 だからこそ、無限を生きる鬼は誰かに後を託すということがなく、彼らの回想は自己完結する。しかし、煉獄の回想(想いともいえる)は炭治郎に託され、しっかりとこの漫画の主人公の肝に銘じられている。だからこそ、煉獄の夢は自己完結してしまう願望充足ではなく、気付き、継承へと繋がる回想になったのである。

主人公を決意させる役割を演じた煉獄

 炭治郎は煉獄の死と彼から受け継いだ言葉によって、初めて鬼殺隊の血みどろの継承の中へ招き入れられる。煉獄家に受け継がれてきた炎柱の手記が炭治郎の継承されるのである。また、煉獄が炭治郎に伝えた「心を燃やせ」という言葉は、何度も炭治郎の危機を救っていき、彼のスローガンのようになっていく。そして炭治郎の戦う理由が「殺された家族の復讐」という個人的な理由に加えて、「鬼殺隊隊員としての責務」という社会的な理由も加わるのである。炭治郎が鬼との戦いに身を投じる決意をより一層固めてくのである。

 このような主人公とその周辺にいる人物との出会いと別れが、その後の主人公の行動に影響を与えるということは、少年漫画でよくある。『金色のガッシュベル』では、コルルとの出会いと別れが、主人公ガッシュの「優しい王様になる」決意をさせ、その決意は宿敵であったゼオンを許す行いへと繋がっていく。『鋼の錬金術師』のもう一人の主人公、マスタング大佐の友人であったヒューズ中佐の死が、大佐をより一層人造人間との戦いに投じさせる。

 余談だが、これらの作品と逆の決意をしているアニメがある。そのアニメを『魔法少女まどかマギカ』という。序盤、主人公の鹿目まどかは魔法少女になる決意を固めた瞬間、彼女の姉のような存在で、先輩魔法少女であった巴マミが魔女に殺害される。まどかは現実を思い知り、魔法少女にならない決意を固めてしまうのだ。このアニメは様々な点で既存の物語構成を逆手に取っているが、この点でもまさに逆手に取っている。

⑵ まとめ

 この映画(というよりこの漫画)における煉獄杏寿郎の役割は、主人公(と観客)に死と隣り合わせの世界を伝えるとともに、「その死によって、主人公を鬼殺隊の継承の系譜へと招き、鬼と戦う決意を一層固めさせる。」役割があったと言える。しかし、鬼殺隊の想い、煉獄の想いを継承させるためには、煉獄の過去を掘り下げなければならなかった。煉獄が過去の鬼殺隊から受け継いだものを炭治郎へ受け渡すのだから。作者はその過去を、一見夢に見える回想によって観客に伝えたのだ。

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次回の映画日記はクリストファー・ノーラン監督の『TENET』

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