2019年のカンヌ国際映画祭で脚本賞とクィア・パルム賞を受賞した本作は、主要人物である2人の女性の関係を、視線で表現した映画であると思う。視線による見る/見られるの関係は職業上のものから始まり、より親密な関係になり、最終的に終わった関係となる。この映画における視線を、大学時代に2000本近くの映画を見た執筆者が考察してみる。
⑴ 観察する視線と隠される肖像画
小舟に乗って小島にやってきた画家のマリアンヌ(ノエミ・メルラン)。ある貴婦人に娘の肖像画を制作を頼まれたからだ。その娘の名はエロイーズ(アデル・エネル)。彼女は結婚が嫌で、現代でいう見合い写真となる肖像画の制作を拒んでいた。そのためマリアンヌは秘かに絵の制作を頼まれる。
日課となったマリアンヌとエロイーズの散歩。マリアンヌはこの間にエロイーズを観察する。画家はモデルの耳や手などを詳細に観察し、その光景をキャンバスに写していく。この時、モデルのエロイーズは見られていることに鈍感であり、画家の視線は一方的である(つまりマリアンヌが一方的にエロイーズを見ており、エロイーズは彼女を見返すことはほとんどない)。
反対に、エロイーズがマリアンヌの部屋に訪れる際、マリアンヌは自身のアトリエをエロイーズから隠す。彼女はエロイーズに制作途中の肖像画を見られまいとしているのだ。そのため、エロイーズの視線は布で遮られる。
つまり、この映画の序盤において、マリアンヌの視線は一方通行であり、マリアンヌの秘密は布によってエロイーズの視線から遮られているのである。
⑵ 見つめあう視線は互いをさらけ出す
肖像画の完成にあたり、マリアンヌはエロイーズにその絵を見せる。その時に初めてエロイーズはマリアンヌが絵を描いていたと知る。エロイーズは「これは本当の自分ではない」と自分の肖像画を一蹴し、その怒りからマリアンヌは肖像画のエロイーズの顔を布で拭き潰す。
再びマリアンヌの創作が始まるのだが、今度は堂々とエロイーズをモデルとして見ることができ、エロイーズもまたモデルとして協力するようになる。布で遮られていた空間がエロイーズに開かれることで、マリアンヌとエロイーズの心も徐々に開かれていき、マリアンヌは「本当のエロイーズ」を発見していくことになる。
肖像画の創作という共同作業を通して、二人は互いに細かい癖を知るほど親密になる。画家とモデルとして見つめあうことの多くなった視線は、恋人の視線へと移り変わっていく。ある風の強い日、日課の散歩に出かけた二人は砂浜で接吻を交わす。
二人は恋を謳歌するが、そこに不穏な影がやってくる。この影はその世界を生きる登場人物たちには分からないが、映画を見ている観客には分かってしまう。その影とはオルフェウスの伝説である。
⑶ 別れの視線とすれ違いの視線
このギリシア神話は、冥界にまで迎えにきた愛しい妻を、オルフェウスが一目見ようと振り返ったことにより、夫婦に一生の別れが訪れる話である。つまり、この伝説が語られる時点で、観客はマリアンヌとエロイーズがこの先別れることを悟る。そして実際、肖像画が完成することでエロイーズの見合い話が一段階すすみ、二人は別れることになる。その際、マリアンヌは後ろを振り返らぬまま島を去ろうとするが、「私を見て」と言うエロイーズの一言で振り返る。オルフェウスのように。事実、オルフェウスの振り返った時が妻との最後の視線の重なりだったのと同じように、この瞬間がマリアンヌとエロイーズの最後の視線の重なりとなった。
マリアンヌはエロイーズと別れてから、二度彼女を見かける機会にあう。一度目は肖像画のエロイーズとの再会で、マリアンヌは肖像画のエロイーズを見ているものの、油で描かれたエロイーズは虚空を見つめている。
二度目の再会は劇場で、マリアンヌは遠くからエロイーズを見つける。だが、その物理的距離の遠さがそのまま心理的距離の遠さにもなっており、マリアンヌの視線は終始一方通行だった。エロイーズが彼女を見ることはなかった。
マリアンヌが現在教鞭をとっている教室には、エロイーズの肖像画が描かれている。そこに描かれているエロイーズは小さく、物理的な距離感を抱かせ、このモデルの視線はもはやこちらを向いていない。物理的に近くこちらを向いていたお見合いの肖像画のような親近感は、この絵にはもはや存在しないのである。
以上のように、この映画は視線のやり取りでマリアンヌとエロイーズの心の距離を、見事に表現しているのである。