川井書生の見聞録

書生が見聞きしたこと、体験したことを徒然に書き込んでいきます。

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Go To 北海道1800kmの旅②ー積丹半島・小樽・札幌編ー(書生の旅行記10)

 登別洞爺湖を満喫した僕は、相棒のタンクとともに国道230号線を積丹半島の方角へと走った。途中、羊蹄山を通り過ぎ、目的地の積丹半島へ到着。積丹ブルーと評される海は誠に絶景だった。その後、僕は2日目の宿泊地である札幌へと向かう。途中、小樽に足を止めながら・・・

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積丹半島:神威岬

シャコタンブルー

積丹半島の先端、神威岬

 トヨタの黒いタンクは洞爺湖を後にし、積丹半島を目指して走っていた。シャコタンブルーと称される美しい海を見に行くためだ。100kmを超える道のりでは、羊蹄山の近くを通過する。真狩村から羊蹄山へと伸びる道は、ひたすら真っ直ぐで、そのまま天へと続いているかのようだった。

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左)真狩村から見た羊蹄山 右)ただただ真っ直ぐ続く道

 北海道は地平線の果てまで道が真っ直ぐ続いていることも多く、信号も、交通量も少ない。従って、僕はタンク軽快に飛ばして運転することができた。斯様な感じで運転ができるからこそ、北海道には有料道路やバイパスがそこまで必要ないのだろう。国道や道道が高速道路みたいなものなのだから。

 国道229号線へと出たタンクは、左に日本海を臨みながら積丹半島の先端へと駆けてゆく。すでにここの海岸ですらシャコタンブルーが眺められた。積丹半島は浜がある海というよりは、磯や岩が海に接している厳しい土地のようだ。

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国道229号線

 サイロ展望台から約2時間かけ、積丹半島の先端にある神威岬へ到着した。その間にビートルズの「Norwegian Wood」も「Yellow Submarine」も「Octopus's Garden」も、ジョージ・ハリソンの「Got My Mind Set On You」も聞いてしまった。積丹半島から札幌への道は違う歌手の曲を聞こうと思った。

 神威岬を灯台のある方へ歩いていくと、最初に現れたのは女人禁制の門であった。その謂れは義経伝説にあるらしい。実に義経という人物はどこにでも登場する。先日だって銚子に登場したばかりではないか。

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女人禁制の門

 神威岬に伝わる義経の伝説とはチャレンカ伝説と言われている。義経に想いを寄せる首長の娘チャレンカは、自分を置いていった義経を追い、神威岬へ。しかし義経の船は沖の彼方へ。悲しみにくれたチャレンカは「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん」と恨みの言葉を残して海に身を投げる。悲しみと恨みを抱いたチャレンカの身体は神威岩となり、以来その周辺に女性を乗せた船が近づくと転覆したことから女人禁制の地となった。この掟は明治時代初期まで続いた。

 僕は女人禁制の門をくぐり、チャレンカの小道と呼ばれる稜線沿いの道を歩き進んだ。前方には神威岬灯台までの道がはっきりと見える。まるでヒトデの足のような陸地だ。先へ行くほど細くなっていく。

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神威岬

 途中、観光客が立ち止まって一眼レフやスマホでパシャパシャ撮影をしている箇所があった。僕もそこに立ち止まって来た方向を振り返ると、絶景ではないか!シャコタンブルーは空より青が鮮やかで絵の具を海に混ぜたみたいだった。

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シャコタンブルー
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磯には海藻のようなものが付着している。

 神威岬灯台に到着した。木下惠介監督の「喜びも悲しみも幾年月」に登場しそうな灯台だ。この灯台は北海道庁が1888年から6年に渡り建設した最初の20基の灯台の1つである。当時は今のように歩道が整備されていなかったそうなので、灯台までの道はより一層険しく、灯台守の生活もかなり不便だったそうだ。

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神威岬灯台

 そこからもう少々、ヒトデの先端へ歩くと、ついに岩となったチャレンカに会えた。神威岩は神聖なものなのか、お賽銭が手前の岩に沢山落ちていた。中には野球選手のカードも落ちていた。日ハムの優勝を願ったのだろうか。

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右奥が神威岩。水平線が丸く見える。

 全く、義経という男は色んな場所で様々な女性にモテて羨ましい。司馬遼太郎の「義経」によれば、義経は平家を追討する前も女性にモテていたらしい。

 僕は積丹半島を前方に見据えながら、神威岬を戻った。

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神威岬から見た積丹半島

積丹ブルーの渚、島武意海岸

 神威岬から少し小樽方面へ行くと、島武意海岸に着いた。ここは「日本の渚100選」に選出された景勝地。昔、ニシンを運ぶために掘られた真っ暗でジメジメしたトンネルを抜けると、そこにはシャコタンブルーが広がっていた。まさに閉じていた目を開けると、突如現れた絶景という感じだった。

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真っ暗なトンネルを抜けると・・・

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島武意海岸が

 トンネルの出口から海岸まで下りていくと、そこには先客が5組いるようだった。1つはカップルの観光客。彼らは島武意海岸を背景に写真を撮っていた。観光客はもう1組いた。女子2人組だ。彼女らは岩に腰掛け、靴を脱いだ足を海に浸している。一体何を話し合っているのだろうか。クラスにいる格好良い男子についてかもしれない。あるいは進路についてかもしれない。

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島武意海岸

 残りの3組は地元の人だと思われた。ある男性は海岸でボートを掃除していた。ある水着姿の女性は海岸に寝そべって日光浴をしていた。彼女の肌はすでに小麦色に焼けていて、彼女のかけているサングラスと同じ色をしていた。彼女は白いイヤホンを装着し、外国語の本を読んでいた。彼女の周りだけ南仏のビーチみたいだった。彼女はきっとサガンの「悲しみよこんにちは」を読んでいるに違いないと思った。

 最後の1組である地元のカップルは海に出ていた。シュノーケルを付けて磯を漁っている。ここら辺は雲丹の名所だから、雲丹でも探しているのだろうか。ここに来るまでの間に「密漁禁止」の看板は幾度となく見かけたのだが。彼らの荷物が海岸に置かれていた。何だか風情がある。

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海に出ているカップルの荷物

 僕は小麦肌の水着美女に出会えたので大満足だった。僕はクーラーで涼みながら、タンクを札幌へと走らせた。本日の宿泊場所は札幌なのだ。

北のウォール街

右へ曲がると小樽運河が見えてきた

 国道229号線を札幌方面に進んでいる道中、予定よりも早く札幌に着くことが分かってきた。時刻はまだ昼過ぎなのだ。ビートルズが「Penny Lane」を歌っている時だった。僕は余市のニッカウイスキー工場に寄ることにした。そこには15時過ぎに到着したが、入口で警備員に制止された。「ここは事前予約制になっております」。事前予約制?そうかコロナ対策でそのようなシステムに変わったんだと僕は理解した。「しかもここは15時までです」。しかも?この警備員は余計な一言を発してしまうタイプらしい。

 僕は急遽小樽に寄ることにした。小樽はいつか冬に行こうと決めていたのだが、今日行ってしまおうと。

 国道5号線を東進すると、少しずつ街並みが都会になってきた。小樽が近づいてきたようだ。カーステレオからフランス国歌が聞こえてきた。ビートルズが「All You Need Is Love」を歌うようだ。

 国道5号線に右折カーブがあった。それは僕に「ここを曲がると小樽だよ」と伝えてくれているようなカーブだった。案の定、そのカーブを曲がると小樽運河が見えてきた。

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小樽運河

 僕は文明開化の時代に建てられたであろう建築物の地下にタンクを止めた。その建物は地下1階だけが21世紀風だった。僕は橋を渡り、運河沿いを歩いた。観光地はどこもかしこもカップルが多いようだ。その次に大学生のグループ。女性団体か男女混交の団体だ。相変わらず、皆パシャパシャと写真を撮っていた。僕もパシャパシャと写真を撮った。

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僕もパシャパシャと写真を撮った。

北のウォール街の中心

 日没が迫っていた。僕は閉館になる前にどこか博物館なり美術館に行きたかった。僕はここ小樽の歴史が学べる金融資料館に行くことにした。明治大正のハイカラな建物が並ぶ通りにそこはあった。金融資料館は日本銀行の旧小樽支店を博物館にしたもので、外観・内観ともに、ハイカラな建築を楽しむことができた。入口では、当時の窓口がお出迎え。

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金融資料館

 明治初期、小樽は2000人あまりの小さな漁村だった。しかし1869年に明治政府が開拓使を設置して以来、小樽は北海道開発とともに商業都市として歩み始める。1893年には日本銀行が北海道の金融を円滑にするために道内に店舗を設置。札幌・函館・根室の3つの出張所のもとに、16の派出所が設けられた。小樽派出所は札幌出張所のもとに設置された。以後、小樽の商業・貿易は発展していき、1897年には小樽出張所となる。その後、小樽は日露戦争で得た南樺太の中継地となり、1906年には小樽支店となった。小樽支店はさらに業務を拡大していき、1912年に手狭になった支店を新築。この設計には日本銀行本店の設計も手がけた辰野金吾とその弟子である長野宇平治らが関わった。

 館内は斯様な小樽と日本銀行の歴史の他に、明治期以降の物価の変動や金融史、歴代の日本銀行券(お札)、小樽支店の建物についてなどの展示がされていた。1億円を持ってみようというコーナーもあったのだが、それは新型コロナウイルスの影響で中止されていた。

小樽を支えた手宮線

 北海道で最初の鉄道である幌内鉄道が1880年に部分開通、1882年に手宮から幌内までの開通すると、小樽は北海道の陸海交通の要衝を占めるようになった。1889年に特別輸出港、1899年に開港場の指定を受け、小樽港の整備が進む中で利用する汽船の数は増加し、小樽は貿易港・商業都市として発展していった。

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手宮線の線路と駅舎(色内駅)

 北海道の鉄道はアメリカの鉄道技師クロフォードの指導で進められ、手宮の構内でアメリカから蒸気機関車の部品を輸入、「義経」「弁慶」「しづか」号などが組み立てられ走り出した。北海道のこの辺りではやたら義経が出てくる。

 しかしながら、時代の変化により輸送手段が船から車へと交代し、手宮線は1985年に廃線となった。今ではその跡地が保存されている。

北の大都会

眠らない札幌

 太陽が沈んだ。北海道の日没は早い。知床はもっと早いだろう。僕はタンクのヘッドランプを点灯し、駐車場代を精算した。自動車の灯が潮流を流れる魚群のように、規則正しく流れている。僕のタンクもその中の1匹となって、札樽自動車道に身を流した。札樽自動車道は流れも速く、量も豊富だった。車内ではビートルズの「A Hard Day's Night」が流れていた。そう、僕はこれから札幌でハード・デイズ・ナイトを過ごすのかもしれない。

 札幌は大都会だった。東京のような交通量で、車線変更に四苦八苦する。進めど進めど建物が尽きることがない。ビジネスマンや若者が歩道をふらふらと歩き、タクシーが「空車」で待っている。道路の両脇の飲食店や信号は暗くなることを知らず、ここもまた眠らない街であった。

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すすきの交差点

 僕はすすきのを通り過ぎ、この眠らない街を一望するために藻岩山に登った。多くの若者たちに囲まれながら、標高531mの展望台をロープウェイで目指す。札幌は長崎・北九州に並び日本新三大夜景と言われている。冬の札幌の夜景も見てみたかったが、それは今度に譲ろう。

 札幌の夜景は橙色の光が多いと、ロープウェイの係員が話していたが、確かに海に近い奥側ほど橙色の光が多かった。札幌の中心部がある高層ビル群は真っ白に点灯していた。

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札幌の夜景

 さて、僕は藻岩山から見た明かりの中にいる。タンクを札幌駅前のビジネスホテルの駐車場に停め、すすきの方面へと歩いていた。札幌は本州とは異なる歴史的背景を持つからか、些細な箇所で東京都の違いを発見できた。

 信号機の看板。札幌の中心街では「北3西3」という地図上の表記のような信号が多数存在した。これは札幌に限らず、他の北海道の街でも見られる光景だった。計画的な都市計画によるものだろうか。また、歩行者用信号も赤が後これくらい続きますよという残り時間がメーターとして表示されていた。赤の時間を表記する方法は東京というより上海に近いものを感じた。

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左)北3西3の信号機 右)歩行者用信号の残り時間

 札幌には、路面電車が走っている。そういえば函館にも走っていたから、北海道の都市には路面電車が結構走っているのかもしれない。路面電車はすすきのの交差点で右へ曲がっていった。僕はそれとは逆に左へ曲がった。

 そのまま真っ直ぐ歩くと、有名なガールズバー店があった。女の子たちがバニーガールの格好をしているバーだ。一時期は路上からウサギたちのお尻が見えたそうだが、今は磨りガラスとなっており、店の外からは見えなかった。それでも1階の様子はよく見えた。金髪のお姉さんがカードゲームに興じていた。客待ちのお姉さんはマスクをして、退屈そうにドリンクをかき混ぜていた。男たちは楽しそうに騒いでいた。

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左)路面電車 右)フロリダで泊まったホテルチェーンが札幌にもあった。

 僕は1周して再びすすきの交差点に戻ってきた。お腹が減っていた。せっかく札幌に来たのだから、ジンギスカンか札幌ラーメンを食べたかった。近くのジンギスカンを調べてみると、チェーン店がヒットした。このお店は職場のある六本木で食べたことがあった。次に札幌ラーメンを調べてみると、有名なお店が何件か近くにあった。僕は「すみれ」に入った。

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すみれの味噌ラーメン

 隣の席で「この店は炒飯が1番美味いんだよ」と自慢げに話す男性4人組を尻目に、僕は味噌ラーメンを食べた。僕は、味噌ラーメンがそこまで好きではないのだけれど、最後まで平らげてしまった。

 帰り道、僕は大通公園を横切った。テレビ塔の時刻は10:40を数え、イルミネーションと月明かりが美しかった。地上には多種多様な若者がいた。タバコを吸いながら酒を飲んでいる柄の悪い若者、糸車の練習をしている若者、ベンチで互いの肩に寄りかかっている若者、芝生に座り込みおしゃべりに興じている若者。東京と何も変わらない。

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大通公園とテレビ塔

日中の札幌

 僕は札幌の次に美瑛を観光する予定だった。だが、蜂嫌いな僕は美瑛の花畑に行くのが恐かった。しかも9月という季節は蜂が多いタイミングだった。僕は札幌に着いた夜に、身体を丹念に洗って体臭を落とし、明日着る服は長袖長ズボンにし、帽子もかぶり、虫除けスプレーもすることにした。しかし、それでも不安だった。この対策は大井川に行った際にもしたのだ。それにも関わらず、奥大井湖上駅で蜂は僕の周囲をブンブンと旋回した。

 僕は美瑛に出発する日、札幌の駅前にある赤レンガテラスのモンベルで灰色の長袖シャツを購入した。虫は黒を好むと聞いていたので、薄い灰色のシャツを着て対策をしようとしたのだ。僕は早速車内で着替えた。少しだけ美瑛に行く自信が湧いた。

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赤レンガテラス

 美瑛に行く前に、歴史好きの僕としては2箇所寄りたいところがあった。時計台と北海道庁旧庁舎だ。赤レンガテラスの展望エリアから旧庁舎が見えた。

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北海道庁旧庁舎

 旧庁舎は本来ならリニューアル中で中には入れないのだが、道民割をしているからか、この期間は特別に一部見学ができた。この建物は1888年に北海道庁の技師が設計したアメリカ風ネオ・バロック様式の洋館で、当時鹿鳴館に肩を並べるものだった。以来、新庁舎が誕生するまでの80年間、北海道の中心としての役割を果たしてきた。

 一部しか見学できなかったので、僕はさらっと見学し、札幌時計台に向かった。こちらは通常営業していた。

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札幌市時計台

 1869年、明治政府内に北海道開拓使が設置された。政府は開拓事業の提言を求めるため、アメリカより農商務長官ケプロンを招いた。彼は専門的な技術と知識を習得する学校の建設を強く勧めた。

 1876年、ケプロンの提案を受け、明治政府は札幌農学校(現在の北海道大学)を設置、クラーク博士など外国人教師を招いた。このクラーク博士の構想に基づき、生徒の兵式訓練の施設であるとともに講堂でもある演武場を建設した。1881年には、時の開拓長官である黒田清隆の指示のもと、演武場に時計台を付設し、アメリカ・ハワード社の振り子式時計が設置された。

 1903年には農学校は校舎を増築し、現在の北海道大学の位置に移転した。演武場は札幌市が受け継ぎ「時計台」と呼ばれるように。農学校は1907年まで続き、生徒たちに農学・工学・人文科学・自然科学など。英語の比重も大きく、キリスト教による徳育も行われた。この教育から、新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾、有島武郎などが巣立っていった。

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時計台の2階

 時計台は札幌のシンボルとして、多くの芸術作品に登場した。有島武郎はもちろんのこと、五木寛之の「青春の門」にも登場し、時には時計台をテーマにした曲も作られた。とりわけ代表的なのが高階哲夫が作詞作曲した「時計台の鐘」である。


時計台の鐘 ( Uhrenturm Glocke )  高階哲夫 作詞 / 作曲

 僕が思うに、この曲は北海道を舞台としたアニメ「ゴールデンカムイ」のエンディングテーマ曲「時計台の鐘」でオマージュされている。歌詞も最初の1節が同じだ。次は「ゴールデンカムイ」を見てから、札幌に来てみようと思う。


【eastern youth】「時計台の鐘」MV_Full_Ver.(TVアニメ『ゴールデンカムイ』第二期エンディングテーマ

 札幌の歴史を堪能した僕は、モンベルの灰色のシャツを着て、カーナビの目的地を美瑛の青い池に設定した。なるほど、札幌から美瑛は150kmあるらしい。3時間弱の長旅になるそうだ。僕は大好きなミスチルを聞きながら黒いタンクを走らせた。(756の旅行記11へと続く)

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 次回旅行記は続編

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  前回旅行記は前日譚

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