川井書生の見聞録

映画評論、旅行記、週刊「人生の記録」を中心に書いています。

文明開化の港町、神奈川県横浜の文化と海運を知る(書生の旅行記14)

 「コクリコ坂から」を観て、開港以来日本の玄関口であった横浜という港町に惹かれてしまった僕。映画の主人公たちが暮らしていた洋館を見てみたい思い、山手を訪れるが、コロナ対策で生憎の一部見学のみにとどまる。出だしで躓いた僕は、全体を見学できた文学系の記念館に足を運ぶ。そして「コクリコ坂から」に一瞬だけ登場した日本郵船の「氷川丸」を見に行く。

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日本郵船氷川丸

⑴ 旅行の動機は「コクリコ坂から」

昔の横浜にロマンを感じて

 僕は港町が好きだった。特に幕末に開港された港が好きだった。社会人になって初めての旅行先だった函館も楽しかったし、学生の間に遠足等で幾度となく足を運んだ横浜も好きだった(いつか長崎・神戸・下田にも行ってみようと思っている)。

 それなりの歴史的知識や経済力を持ち合わせた今、もう一度横浜に行ってみたいと思い、その気持ちを高めるために宮崎吾朗監督の「コクリコ坂から」を観た。僕はそれを観た際に、1963年の明るい横浜の雰囲気が羨ましく思い、映画の主人公たちが過ごした横浜を回ってみる事に決めた。

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右の女子が主人公・松崎海、左の男子が風間俊(映画「コクリコ坂から」より)

山手の万全なコロナセキュリティー

 僕はJR根岸線の石川町駅を降りた。天気はあいにくの雨。僕は折りたたみ傘を左手に、ミラーレス一眼カメラを右手に、大丸谷坂を登っていった。なぜ、坂の上を目指して歩いて行くのかというと、「コクリコ坂から」の主人公が住んでいるのが坂の上の洋館だからである。横浜開港後、外国人たちは山手に住み、自然と山手には洋館が増えていった。そこにある洋館「コクリコ荘」に住んでいるのが映画の主人公・松崎海なのである。

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コクリコ荘(映画「コクリコ坂から」より)

 途中、坂に建てられた住宅を幾つも通り過ぎたが、どの家も邸宅と言っていいほど大きく、止めてある車もベンツやポルシェなどの高級車ばかりだった。長年ホンダのフィットを乗っていた僕たちとは住む世界が違うなと思っているうちに、山手イタリア山庭園に到着した。

 そこにはブラフ18番館と外交官の家と呼ばれる2つの洋館があった。僕はより近かったブラフ18番館に入ってみたが、山手のコロナ対策は厳しく、滞留防止のため館内の写真撮影を禁止しており、大半の部屋を閉鎖しているようだった。試しに館内を見学してみたが、なるほど、展示部屋にすら入れなかった。これでは展示物の紹介文すら読めなかったので、僕は早々に出口に向かった。

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ブラフ18番館

 さて、館内を思うように見学はできずとも来てしまった山手である。今いるイタリア山庭園だけは見て行くことにした。ここには1880年〜1886年までイタリア領事館が置かれており、そこからイタリア山と呼ばれるようになった。園内にはイタリア式庭園に代表される水や花壇を幾何学的に配した庭がある。また、イタリア山から見える景色はみなとみらいやベイブリッジを一望できるそうだ(雨だったので何も見えなかった)。

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左)イタリア式庭園 右)イタリア山からの展望

 イタリリア庭園の隣には外交官の家があった。この外交官とはイタリアの外交官ではなく、明治政府の外交官・内田定槌の邸宅である。設計者もイタリア人ではなく、アメリカの建築家・J.M.ガーディナー設計である。こちらもこの時期は館内の写真撮影不可、部屋の一部閉鎖が行われていた。

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外交官の家

⑵ 日本の玄関としての横浜

横浜を描いた芸術家たち

 僕はイタリア山庭園を出た後、神奈川県立近代文学館を目指して山手本通りを東へ歩いて行った。この日の営業状況を外交官の家の係員に訊くと、他の全ての西洋館も写真撮影が禁止され、部屋も一部閉鎖されているのが分かったので、通常営業している近代文学館と大佛次郎記念館を訪れる事にしたのだ。

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神奈川近代文学館

 展示室では、神奈川県を舞台にした文学作品や神奈川で過ごしたことのある作家が紹介されていた。その数は非常に多く、今回の旅行記に関係のある横浜に作品を絞っても何人もいる。大佛次郎は「霧笛」や「幻燈」で文明開化期の横浜を描き、吉川英治は若い頃に過ごした横浜の情景を「忘れ残りの記」に著した。谷崎潤一郎の「痴人の愛」の世界は、谷崎が横浜に感じたエキゾチズムが表れている。三島由紀夫の「午後の曳航」では山手に暮らす日本人母子と船乗りの男性を描く、港町横浜ならではの舞台設定だ。他にも有島武郎、中島敦、獅子文六、山本周五郎、佐藤春夫らが横浜を舞台にしていた。

 この神奈川近代文学館から霧笛橋(名前の由来は大佛次郎の同名小説)を渡ると、横浜ベイブリッジなどが一望できる場所へ出た。雨にも関わらず、中年のカップルが傘も差さずに抱き合っていたのが、何ともロマンチックだった。こんな悪天候の日に濡れながら抱き合うなど、何か余程嫌なことがあったに違いない。

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霧笛橋と展望台

 霧笛橋を渡った左手に大佛次郎記念館があった。大佛次郎は上述した横浜に所縁のある作家たちの中でも、とりわけ横浜に縁の深い作家である。彼は1897年に横浜で誕生。その後、鎌倉に住み、翻訳や執筆を生業として生計を立てる。しかし、1923年の関東大震災で寄稿していた雑誌が廃刊となり収入源を失うが、知り合いの編集者を頼りに小説を書いてみると好評で、「鞍馬天狗」シリーズにより一躍人気作家となる。

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大佛次郎記念館

 大佛次郎は鎌倉に住みながらも故郷である横浜を愛し続けた。1931年から10年間にわたり横浜のホテルニューグランドの一室を職場にして、横浜を舞台にした作品を世に送り出した。また、彼の作品には「ドレフュス事件」などフランスを舞台にした小説も多く、大佛次郎は世界への出口でもある横浜の港から遠い異国を思っていたのかもしれない。

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ホテルニューグランド

 西洋館の見学が省略された分、かなり時間が余った。だから僕は別の日に見学しようと思っていたホテルニューグランドに行く事にした。それは、大佛次郎記念館から北へ少し行ったところにある。その途中、港の見える丘公園の展望台を通過したが、そこには僕の愛する「コクリコ坂から」に関する嬉しい記念碑があった。それは国際信号旗のU W旗と呼ばれるもので「安全なる航海を祈る」という意味を持つ。映画の主人公松崎海はこの旗を毎朝コクリコ荘に掲げるのだ。

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左)国際信号旗(映画「コクリコ坂から」より) 右)国際信号旗(港の見える丘公園) 

ホテルニューグランドのザ・カフェ

 山手の坂を下っていき、日本の道100選に選ばれた山下公園通りをテクテク歩いていくと、いかにも明治から戦前に建てられたようなレトロなホテルニューグランドが現れた。

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ホテルニューグランド

 関東大震災の被害で横浜の華やかだったホテル街も瓦礫の街と化してしまった頃、被災地には臨時で仮設宿泊所が建てられるが、「テントホテル」と揶揄されるほどひどいものだった。そのような状況を受け、当時の横浜市長がホテル建設計画を議会に提出し、新たなホテルが建設されることに。名称は公募により「ホテルニューグランド」に決定。設計は銀座和光などを手がけた渡辺仁。そして遂に1927年、震災の瓦礫で埋め立てた山下公園の目の前に開業した。

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ホテルニューグランド本館の内観

 ホテルニューグランドを開業するにあたり、料理長にスイス人のサリー・ワイルを採用した。彼はドレスコード、酒、煙草について自由に、コース料理以外に1品料理のアルカルトを用意するなど、お客様本位のサービスを確立していった。もちろん、彼の料理も「べらぼうに美味い」と評判で、多くの弟子が彼の元に集い、後にニューグランド系と呼ばれるホテル料理人の人脈が生まれた。ワイルの手ほどきを受けた人物として、ホテルニューグランド2代目料理長の入江茂忠がいる。彼は後に1964年の東京オリンピック女子選手村の料理人たちの指導者となった。

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「コクリコ坂から」は、入江茂忠が女子選手村の料理人を指導した東京オリンピックの前年を舞台にしている。(映画「コクリコ坂から」より)

 ホテルニューグランド1階の「ザ・カフェ」に、サリー・ワイルや入江茂忠らが考案したメニューが残っていた。特にシーフードドリアとスパゲッティ・ナポリタン、プリン・ア・ラ・モードの3品は伝統の料理であり、僕はその中のナポリタンを注文した。

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ザ・カフェ

 メニューにはそれぞれの料理の誕生秘話が綴られており、今回食べたナポリタンは2代目総料理長入江茂忠が考案したものだそうだ。かつて進駐軍にホテルが接収されていた頃、軍人が軍用保存食であったケチャップとスパゲッティを和えて食べているのを、入江が目撃した。そこから彼は生のトマトやトマトペーストを使用したスパゲッティを創作。ナポリタンと呼ばれるようになった。

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スパゲッティ・ナポリタン

 このホテルニューグランドは上述した大佛次郎が仕事場にした他、数多くの著名人が宿泊した。作家の池波正太郎、俳優の石原裕次郎、同じく俳優の松田優作、海外からは詩人のジャン・コクトー、野球選手のベーブ・ルース、喜劇王チャールズ・チャップリン。だが誰よりも縁の深い著名人はマッカーサー元帥だろう。

 終戦直後、厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥は、声明文朗読の後、まっすぐホテルニューグランドを目指した。彼にとってはホテルニューグランドは初めての場所ではなく、懐かしい場所であった。1937年にフィリピン軍事顧問としてケソン大統領の訪米に随行、その帰りに訪日した際、マッカーサーは初めてニューグランドに宿泊した。2回目はジーン夫人との新婚旅行の宿泊先として。

 今回、GHQ最高顧問として彼が宿泊した部屋は315号室。今ではマッカーサーズ・スイートと呼ばれているその部屋は、横浜港に面しており、マッカーサーは副官に「気に入った」と告げたという。

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ホテルニューグランド本館の内観2

⑶ 日本郵船の遺産

日本郵船氷川丸

 僕は高級なナポリタンを余すことなく食し、マッカーサー元帥も滞在したホテルを出た。山下公園通りを挟んだ向こうには山下公園が広がっている。そのさらに奥には横浜の海が広がっているのだが、そこにはひときわ大きい建造物が存在していた。氷川丸である。往年は豪華客船や病院船として活躍していた氷川丸だが、現在はその活躍を展示する博物館として、横浜港の一隅に浮かんでいる。

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日本郵船氷川丸

 昭和に入ると豪華客船が次々と建造され、主要な航路に投入された。氷川丸もそれら豪華客船の1つで、1930年に横浜船渠で竣工、北米航路シアトル線に配船され、11年の間、太平洋を横断し続けた。

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氷川丸

 船内では氷川丸の設備やシアトル航路について紹介されていた。氷川丸は神戸を出港すると、横浜に入港し、アリューシャン列島の近くを通る13日間の船旅を経てシアトルに到着する。

 氷川丸の船員・従業員にとって、無事にシアトルに到着することは重要な仕事だったが、その間の乗客への心配りも大切な仕事だった。とりわけ一等船客には夜にダンスパーティを行ったりとレクリエーションを豊富に用意し、船旅を飽きさせないような工夫が施されていた。

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トランクに貼られているシールが多いほど旅慣れている証とされ、ホテルで優遇されたらしい。

 ディナータイムの後は毎晩のようにダンスパーティーが開催された。アール・デコ様式の社交室で紳士淑女が踊る華やかなパーティーは、一等船客のみが参加できるイベントだった。その他にも乗員の自作自演のショータイムや映画上映などが行われていた。

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一等社交室。マルク・シモン設計。

 特に外国人の多い一等船客に人気だったのがスキヤキ・パーティーだった。紅白の幕を張り、提灯を吊るし、ちゃぶ台を囲む日本スタイルがとても喜ばれたそう。「コクリコ坂から」で挿入歌として流れる「上を向いて歩こう」の英訳名が「Sukiyaki」であるのに、もしかしたら一役買っているのかもしれない。


上を向いて歩こう - 'Sukiyaki' - Kyu Sakamoto (坂本 九) 1961.avi

 上記のような華やかな船旅をした一等船客には、様々な著名人がいた。1932年、映画「街の灯」完成後、日本を訪れていたチャールズ・チャップリンは、横浜から氷川丸に乗船して帰国の途に着いた。チャップリンの乗船には宣伝効果も期待した船会社による争奪戦が繰り広げられたが、秘書の勧めと料理の美味しさが決め手となり氷川丸が選ばれた。

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一等食堂

 1937年には、英国王ジョージ6世の戴冠式に出席した秩父宮雍仁親王と勢津子妃が、カナダのビクトリアから横浜まで氷川丸に乗船された。氷川丸は一等特別室などの模様替えを行い、両殿下の乗船に備えた。両殿下は料理に舌鼓を打ち、他の船客ともふれあい、運動会参加するなど船内の生活を楽しまれた。

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一等特別室

 講道館柔道の創始者である嘉納治五郎は、1938年の柔道普及活動の帰路、カナダのバンクーバーから横浜行きの氷川丸に乗船。しかしその直後に病に倒れ、横浜帰着の2日前に亡くなった。

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タイタニック号にもありそうな階段にランプ

 日中戦争、太平洋戦争が勃発すると氷川丸は豪華客船としての役割を失い病院船として活躍する。戦争が終結すると、復員輸送を経たのち、豪華客船として復帰する。氷川丸はフルブライト奨学生などを輸送した。奨学生の中にはノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏、元国連事務総長の明石康氏、ノーベル化学賞を受賞した下村脩氏がいた。

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左)かつてデッキにはテーブルなども置かれたそうだ 右)レトロな消火栓

 その後、旅客輸送は船から飛行機へ、貨物輸送は専用船へと移り変わっていき、1960年に日本郵船は客船事業を撤退することに決める。翌年には改装後、海の教室ユースホステルとして氷川丸が生まれ変わり、水族館やレストラン、ビアガーデンなどの事業を展開した。「コクリコ坂から」で登場する氷川丸は1963年、ちょうどこの時期の氷川丸だろう。氷川丸内に明かりがついているということは、レストランがまだ営業している時間帯なのかもしれない。

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氷川丸(映画「コクリコ坂から」より)

航海の安全を祈る

 氷川丸について知ってしまうと、その船を所有していた日本郵船に興味を持ってしまった。幸い、氷川丸と日本郵船歴史博物館の共通券を購入していたので、僕は早速そちらへ伺った。

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日本郵船歴史博物館

 氷川丸について長々と綴ってしまったので、こちらは簡潔に書いていきたい。博物館には日本郵船と日本の海運の歴史を軸に紹介されており、様々な船の模型などが展示されていた。

 日本郵船は岩崎弥太郎の「三菱」と「共同運輸」の覇権争いから、合併し誕生した。その後、日本郵船は遠洋定期航路を開拓、世界第3位の海運国となった。同社は「浅間丸」「新田丸」「氷川丸」などの豪華客船を運航していたが、太平洋戦争により多くの人員と船を失う。

 戦後、高度成長期を通して国際競争力を高めていき、奇跡の復興を成し遂げた日本郵船。米国のコンテナにいち早く対応し、物流の構造改革に成功する。日本郵船は様々な輸送船が建造し、海運業界をリードしていく。

 僕がこの中で一番心惹かれたのは、豪華客船の時代だった。やはり先ほど見てきた氷川丸の影響が尾を引いているのだろう。ミュージアムショップでは当時のパンフレットを絵葉書にしたお土産が売っていたり、国際信号旗があいうえお表のように一覧となっていたクリアファイルなども売られていた。

 国際信号旗はR旗が「ロメオ」と呼ばれ、J旗が「ジュリエット」と呼ばれているようにどこかロマンチックな旗もあった。Z旗は「ズールー」と呼ばれ、私は引き船がほしいという意味だが、日本では異なる意味をも持つ。1904年の日露戦争でバルチック艦隊と戦う際に東郷平八郎が旗艦・三笠に掲げたのがこのZ旗なのだ。この時、その旗は「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の信号機として掲げられた。

 二字信号というのもあり、U旗とW旗を掲げたUW旗は「安全なる航海を祈る」という意味を持ち、「コクリコ坂から」で松崎海が毎朝コクリコ荘に掲げている。

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UW旗を掲げようとしている松崎海(映画「コクリコ坂から」より)

 今度はZ旗を見に、三笠のある横須賀に行ってみようと思っている。

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参考文献(※参考順)

・横浜市緑の協会・横浜市弓道協会グループ「横浜山手西洋館マップ」

・神奈川近代文学館「神奈川の風光と文学パンフレット」

・大佛次郎記念館「大佛次郎記念館パンフレット」

・日本郵船歴史博物館「氷川丸ガイドブック」

・日本郵船歴史博物館「日本郵船歴史博物館パンフレット」

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次回は埼玉県の川越を行く

kawai-no-kenbunroku.com

 ※前回旅行記はこちら

k756.hatenablog.com