川井書生の見聞録

映画評論、旅行記、週刊「人生の記録」を中心に書いています。

大人になったなシンジ 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を3つの観点から考察

 2021年緊急事態宣言下。遂にエヴァンゲリオン・シリーズ最終作である『シン:エヴァンゲリオン劇場版』を見た。これで、私が生まれた1995年から始まった同シリーズも終わりを迎えた。私はこの最終作を3つの観点からアプローチしたい。そして、この記事を書きながらエヴァンゲリオンとの別れを噛みしめたい。

『これまでのヱヴァンゲリヲン新劇場版』+『シン・エヴァンゲリオン劇場版 冒頭12分10秒10コマ』

※本記事内でも過去記事の要約はしていますが、過去作の記事をご覧いただけると理解がより深まるのではないかと思います。

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 ⑴ コミュニケーションというテーマ

 旧劇版

 エヴァンゲリオン・シリーズにはコミュニケーションというテーマがあった。旧劇版では、他人に心を開かなかった碇シンジが、葛城ミサト、エヴァンゲリオンの他パイロット、中学校のクラスメイトらとの交流を経て、他人と関わることを知る。

 しかし、エヴァ3号機の事故以降、シンジは友人との繋がりを事故と疎開によって奪われ、アスカが精神を病み、綾波が別人になるといった出来事を経験し、他人と関わることができなくなっていく。そんなシンジに彼を好いてくれた渚カヲルという少年が現れるが、使徒であったカヲルは死ぬしかなかった。そして、シンジは彼らがいなくなった喪失から立ち直れないまま人類補完計画を迎える。

 人類補完計画の最中で、シンジは最終的に他人と生きることを選んだ。しかし、それはただの選択にすぎず、シンジが他人と関わることで成長した過程も描かれていない。また、シンジが最も褒めてもらいたくて、最も憎んでいた父親との確執もしっかり描かれていないまま終劇となった。

新劇場版

 これらの不十分な結末を補うために、新劇場版を制作することになった。新劇場版では、シンジと他の人のコミュニケーションがより丁寧に描かれている。また、このコミュニケーションというテーマは綾波やアスカでもより掘り下げられている。

 『序』『破』のヤシマ作戦、食事会、落下型の使徒の迎撃作戦を通して、3名のパイロットは他人と生きることの大切さを知る。それは特に綾波とアスカに顕著だ。『破』において綾波はシンジのために料理を勉強しゲンドウとの食事会をセッティングする。誰かのために何かをする綾波の様子は、リツコが言うように「変わった」。アスカもまた、落下型の使徒を1人では倒せなかったことから「他人と一緒にいるのも悪くない」とミサトにこぼす。そして、綾波もアスカもシンジのことを好きになる。

 しかしながら、旧劇同様に彼らは幸せにはなれなかった。アスカは搭乗していたエヴァ3号機が使徒化し、意識不明の重体。綾波は零号機ごと使徒に取り込まれてしまう。シンジはアスカを救えなかった悲しみと怒りから、綾波を意地でも救おうとする。綾波もシンジの願いに応えて彼の手を取る。たとえ世界がどうなっても。それは他人といることの大切さを知った彼らだからこそ選んだ道だった。

 その代償は大きかった。14年ぶりに外の世界に帰ってきたシンジは変わってしまったミサトやアスカに絶望する。ミサトは「もう何もしないで」とシンジを突き放し、アスカはシンジをガラス越しに殴る。救ったはずの綾波は初号機に未だ取り残されたままで、外の世界には別の綾波しかいない。

 孤独なシンジの前に現れたのはまたしても渚カヲルだった。彼はピアノの連弾を通してシンジ唯一の理解者になっていく。だが、運命はまたシンジからカヲルを奪ってしまう。

 旧劇版の人類補完計画の直前のように、シンジは大切な人の喪失を味わう。彼はこの時も自らの殻に閉じこもってしまうのだ。ここまでは大きな方向性として旧劇と変わらない。しかし、『Q』のラスト時点で旧劇の人類補完計画直前とは異なることがある。それはアスカと別の綾波が一緒にいるということだ。

 旧劇では他人を失った喪失から成長せずに他人のいる世界を願った碇シンジ。しかし、新劇場版の最終作はどうなったのだろうか?旧劇を乗り越えるためには他人を失った喪失から立ち直ることが必須だ。次は最終作のコミュニケーションについて考察することにする。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

 『Q』のラストで大切な友人だった渚カヲルを失ったシンジ。彼の死によって世界の秩序は保たれたが、シンジは大きな喪失を経験する。旧劇の時はこの喪失から立ち直ることができないまま人類補完計画を迎えた。それは喪失したシンジを救う人間がいなかったからだ。唯一ミサトだけがシンジの側にいたが、彼女も結局彼の目の前からいなくなってしまった。

 最終作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では、喪失したシンジを支える、立ち直させる人物が身近にいた。それはパイロット仲間でありかつてのクラスメイトたちだった。旧劇ではシンジが話しかけても反応できなかったアスカが、最終作では反対に積極的に話しかけてくれる。むしろシンジがアスカに対して拒絶反応・無関心だった。それを象徴するシーンとしてアスカの裸を見たシンジのリアクションがある。旧劇ではアスカの裸に欲情したシンジだが、今回では全くリアクションを取らない。

 アスカの裸の例のように、今作はかつての旧劇場版をかなり意識している。人類補完計画発動後、シンジとアスカは赤い海に浮かぶ白い島にいる(旧劇)。この時シンジはアスカの首を絞めながら泣き、アスカは「気持ち悪い」とつぶやく。『シン』にはこれに対応したシーンがあり、旧劇同様シンジとアスカは赤い海に浮かぶ白い島にいる。シンジは横になっているアスカに「好きになってくれてありがとう。僕も好きだったよ」と感謝を伝える。これは急激に比べて明らかに他人とのコミュニケーションが上手くなっている。

 シンジがここまで他人と関わることに積極的かつ上手になれたのは、カヲルを失った後、アスカに叱咤され、別人格の綾波に粘り強く話しかけられ、トウジやケンスケに社会生活を教えてもらったからに他ならない。シンジは主人公と主要人物の小さな関係と世界の危機の中間項たる社会を知ることで大人になったのだ。

 そして、成長した碇シンジはずっと対話することをできなかった父親・碇ゲンドウと対峙する。すなわち、エディプス・コンプレックスの解決だ。

⑵ エディプス・コンプレックス

旧劇版

 エディプス・コンプレックスとは、精神分析学の創始者であるフロイトが提唱した用語で、彼によると、

「少年と父親の関係は、精神分析の用語で語ると、両義的なものである。少年は[母親との愛情の関係で]父親をライヴァルとみなし、殺したいとまで憎んでいるが、同時に父親への愛情もある程度は存在している。」

(ジグムント・フロイト「ドストエフスキーと父親殺し」『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』中山元訳、光文社、2011年、248頁)

  このような親子関係を描いた作品は、この専門用語の由来となった古代ギリシア悲劇『オイディプス』、シェイクスピアの四大悲劇である『ハムレット』、文学史上の最高傑作の1つであるドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、最近では有名なゲームシリーズ『FINAL FANTASY X』などが挙げられる。

 エヴァも父親への愛憎がシンジの行動の動機となることが多い。父に褒められたいからエヴァに乗り、父を許せないからエヴァに乗るのをやめたりと。しかし、旧劇の中でシンジの父親への愛憎は解決することはない。シンジの母親の分身たる綾波レイが「碇くんが呼んでる」と、ゲンドウではなくシンジを選ぶ結末で幕を閉じている。

 この結末もまた、旧劇版がきっちりと終わらないと感じる原因となった。

新劇版

 『Q』までの新劇場版では、碇親子の関係はまだ焼き直しの段階にすぎない。『序』では、シンジがエヴァに乗り続ける理由を「父親がネルフにいるから」「父親に褒められたい」とミサトに推察されている。これは旧劇版と同じ展開だ。

 それは『破』においても同じである。シンジが落下型の使徒を殲滅した際、父親に「よくやったなシンジ」と褒められる。その夜、シンジは「父さんに褒められて嬉しかった」と胸の内をアスカに打ち明ける。だが、アスカがエヴァごと使徒に取り込まれた際、ゲンドウはシンジのアスカを救いたいという希望を無視して、ダミープラグによる自動操縦でアスカごと使徒を倒してしまう。それにシンジは拒絶反応を起こし、親子の関係は最悪になる。

 14年後の『Q』でシンジとゲンドウは一度だけ対面する。シンジは現在の状況が飲み込めないため父親に現状の説明を求める(アスカが無事だったこともありシンジの父親への恨みは消えていたのだろう)。しかし、ゲンドウはシンジの問いには答えず、「エヴァに乗れ」という命令だけ残して去る。

 『Q』のラストまで見て、まだこの親子の確執は決着がついていないことは明白だ。この物語が終わるためには他のエディプス・コンプレックスを扱った物語のように、碇親子が和解するか、どちらか一方がもう一方を殺すか、あるいはその両方が起こらなければならない。最終作でこの親子関係がどのように展開するか考察してみよう。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

 旧劇版での親子関係の結末は、母親の分身たる綾波レイが「碇くんが呼んでる」とゲンドウではなくシンジを選んだというものだった。つまり、シンジが父親に勝利した形で物語が終わった。しかし、人類補完計画の中でシンジと父親は対峙することはなく、シンジの父親に対する愛憎は解決しないままだった。

 一方、今回の『シン』ではシンジとゲンドウが対峙する。それはミサトが言うように「自分の父親と戦う」ということでもあった。エディプス・コンプレックスをテーマにした作品は、父親殺しか父親との和解、あるいはその両方によって主人公の葛藤を解決するが、今回は両方であった。シンジは父と対話を重ねた。その結果、ゲンドウは息子の中に母の姿を見つけた。そして、父は母と共に死んでいった。

⑶ セカイ系というジャンルとして

旧劇版

 1995年のテレビアニメシリーズおよびその劇場版はセカイ系の元祖という評価を得てきた。「セカイ系」とは『コトバンク』によると、

「少年と少女の至極一般的な日常生活を、主人公の精神面や心情ばかりをクローズアップして描いているが、その恋愛や生活は世界の危機と直面している。しかし、世界の危機という大規模な問題がなぜ起こったのか、今世の中はどうなっているのかといった、社会や主人公周辺の具体的な描写は欠落している。このような共通点を持つ物語を「セカイ系」と呼ぶ場合が多い。

セカイ系の代表的な作品は、1995年に放送されたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」であり、セカイ系という言葉を生み出すきっかけとなったともされている。」

 と述べられている。実際に、旧劇版は碇シンジの中学校生活と使徒との対決という非日常を描いており、ネルフという主人公に関係のある大人以外はほぼ描かれていない。主人公と世界の危機の間に社会という中間項が存在せず、主人公の世界が世界の危機に直面している。

 そして、物語のクライマックスに人類補完計画という最大級の世界の危機が訪れるが、それはあくまで碇シンジという依代を中心に起きた出来事である。そして、主人公たるシンジが「他人ともう一度生きたい」と願うことで、人類は再び元の姿を取り戻すのだ。

新劇場版

 新劇場版では、セカイ系という言葉が有名になってから作られているので、制作者側もこのジャンルを意識しているように思える。というのは、旧劇版に比べて社会という中間項が意識して描かれているからだ。『序』ではネルフの一般職員、『破』では第3新東京市の朝の情景すなわち通勤・通学している人々の映像が流れる。

 しかしながら、『破』のクライマックスにおいてニアサードインパクトと呼ばれる世界最大級の危機が訪れる。その原因はまたもや碇シンジと綾波レイという主人公とヒロインの小さな関係であった。

 セカイ系のクライマックスで訪れる世界の危機は、主人公に「世界を救うか」「ヒロインを救うか」という選択を迫ることが多い。新海誠監督の『天気の子』で主人公は世界を捨ててヒロインを選んだ。ゲーム『ライフ・イズ・ストレンジ』では、ゲームがプレイヤーに世界を救うか親友を救うかの2択を選ばせる。

 この時、碇シンジは「世界がどうなったっていい」と叫びヒロインを救うことを選択した。綾波もまたシンジが差し伸べた手を取り、世界の破滅を決定的にする。彼らのこの選択は、コミュニケーションの大切さやアスカを救えなかった後悔から来ているのだろう。その結果、彼らは『Q』で大きな代償を払うことになる。

 14年後、シンジは世界を滅したことで多くの人間の恨みを買う。以前は優しかった人も冷たくなる。その中で唯一優しかった渚カヲルと共に、世界を元に戻すためにもう一度、シンジはエヴァに乗る。

 しかしながら、またしてもインパクトが起こってしまった。今度は、碇シンジと渚カヲルの小さな関係が招いたものだった。シンジはこの時自らの意志で「世界」か「カヲル」かを選択しなかったが、カヲルが世界を救うことを選んだ。その結果、今度は世界が救われカヲルがこの世から消え去ってしまった。

 シンジは世界の喪失の代わりに大切な人の喪失を経験し、塞ぎ込んでしまった。最終作でシンジは最後にどのような選択を行い、セカイ系としてのエヴァはどのような結末を迎えるのだろうか?

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

 旧劇では碇シンジを依代に人類補完計画が行われた。だが、今回は碇ゲンドウを中心に保管計画が行われた。そこでは、ゲンドウ、アスカ、カヲル、綾波の心をシンジが補完していった。

 旧劇では、綾波とシンジが電車で向かい合って対話をしていた。シンジの悩みを綾波が聞いていた。最終作ではかつてのシンジのポジションにゲンドウが座っており、ゲンドウの悩みをシンジが聞いていた。そのシンジの姿は彼の母親のように優しかった。それはシンジの体に半分流れている綾波ユイの血がそう思わせているのかもしれない。あるいはシンジが乗っていた初号機(母)がそのように見せていたのかもしれない。ゲンドウは遂に、シンジの中に最愛の妻の姿を見つける。

 アスカは自分がエヴァに乗るのは「誰かに認められたかった」「褒められたかった」「頭を撫でてほしかった」からだと気付く。旧劇でその誰かとは加持さんでもありシンジでもあった。しかし、彼らはアスカの頭を撫でたりすることはなかった。だが、『シン』では彼女のクラスメイトだったケンスケが側にいて、アスカに優しく接する。アスカはケンスケの隣に自分の居場所を見つける。

 シンジはカヲルと再会する。それは失った友人との喜ばしい再会だった。渚カヲルの正体がユーロネルフの司令なのか?は定かではないが、ここで渚の役割が終わる。

 シンジは最後に綾波レイと再会する。14年以上初号機の中に囚われていたからなのか、彼女の髪の毛はかなり伸びていた。また、長髪の綾波は「碇くんがもうエヴァに乗らなくていいようにできなかった」と白いプラグスーツ時代の綾波レイ(2人目の綾波)と第3村でツバメを抱き抱えていた黒いプラグスーツ時代の綾波レイ(3人目の綾波)の記憶を持っていた。

 『破』のラスト以来、ようやく主人公とヒロインが再会した。そこでシンジはどのような世界を望むのか問われる。シンジは答える、「エヴァのない世界に作り変える」と。それは旧劇の最終回で、シンジが「これもひとつの世界。僕の中の可能性。そうだ、エヴァのパイロットではない僕もあり得るんだ」と、もう一度他人と生きたいという選択と一緒であった。

 そして旧劇と同様、『シン』もエヴァのない世界が描かれて終わる。そこには世界の喪失もなく、大切な人の喪失もなかった。

⑶ さようなら全てのエヴァンゲリオン

 私が生まれた1995年に『新世紀エヴァンゲリオン』の放送が始まった。私が初めてエヴァを見たのは高校生の時。テスト期間中にも関わらず一気にエヴァを見てしまった。お陰さまで試験の点数は3バカトリオ並みに低かった。この時はアスカのことが一番のお気に入りキャラだったので、救われたアスカを見たくて『鋼鉄のガールフレンド』を呼んだのを覚えている。

 2021年、エヴァンゲリオン・シリーズ最終作が公開されるにあたって、私はもう一度エヴァを見返した。26歳になっていた。初見時はアスカたちと同世代だったのでエヴァのパイロットに感情移入していたが、今はミサトさんが一番好きなキャラになっていた。

 だが『Q』になると、またミサトさんが私の年齢の先を行ってしまった。むしろ、アスカたち元中学生の年齢が私に近くなった。でも、私はもうアスカが好きではなくなっていた。シンジの台詞を借りれば「僕も好きだった」状態である。私は今では綾波が一番好きなキャラになってしまった。なぜだろうか?

 もう一度私の年齢がミサトさんに近づいたらエヴァを見返してみようと思う。その時は誰を好きになっているのだろうか?それまでさようなら全てのエヴァンゲリオン。

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参考文献

・前島賢『セカイ系とは何か』SBクリエイティブ、2010年

・ ジグムント・フロイト「喪とメランコリー」『人はなぜ戦争をするのか』中山元訳、光文社、2008年

・ジグムント・フロイト「ドストエフスキーと父親殺し」『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』中山元訳、光文社、2011年